本博士論文は,語彙音韻論や制約・修復策理論,最小指定理論,韻律強勢理論など を援用した統合的枠組みに基づいて,個別言語のレキシコン内部や外部の音韻部門における音韻構造や音韻過程の在り方に洞察を加えてモデル化し,構築された個別文法に対して普遍文法がいかなる形で関わってくるかを理論的・実証的な観点から明らかにすることを試みた事例研究である。対象言語としては,北米インディアン・スー語族に属するウィネバゴ語(ウィスコンシン方言)を選び,次の5つのポイントを主な目的として,本文中の議論から矢印右側に示す帰結が得られた。
(1) 本稿の目的と帰結
a. 多様な音韻過程の記述によるレキシコン内部構造のモデル化
→ 個別文法の構築
b. 素性構造(体系)と音素配列制約の解明
→ セグメントの分布や結合の在り方の予測
c. 音節構造の解明とその証拠の提示
→ 聞こえの階層とドーシーの法則の生起メカニズム解明
d. 韻律構造の解明とその証拠の提示
→ アクセント分布の予測とドーシーの法則とのパラドックス解決
e. 制約と修復策の相互作用の実証
→ 普遍文法と個別文法との関わりの解明
まずは,(1a) に示す巨視的観点から,この言語の様々な音韻現象を包括的に発掘した 上で多様な音韻過程の性質や順序関係を実証することにより,語彙音韻論に基づいた個別文法のモデルを提示した。その一方で,(1b-d) のように音韻構造の詳細を問題とした微視的観点から,この言語の素性構造・音節構造・韻律構造をいくつかの証拠に基づいて明らかにし,セグメントの分布・結合の仕方や,聞こえの循環パターン (sonority cycle) の在り方,アクセントの分布などを予測できることを示した。更にはその議論の過程で,(1e) のように,ドーシーの法則が音節構造に関する制約違反とその修復過程から,アクセントとドーシーの法則のパラドックスが韻律構造に関する制約違反とその修復過程から,それぞれ生じるものであることを立証した。
対象言語をウィネバゴ語としたのは,以下の理由による。まず第1に,生成音韻論が台頭した 60 年代以来,ウィネバゴ語の音韻構造が何度か取り沙汰された経緯はあるものの,この言語の個別文法における音韻部門の全体像や,その素性構造・音節構造・韻律構造などが未だ不明であり,また先行研究における分析それ自体も部分的かつ不充分であり,大きな問題を含んでいたことが挙げられる。つまり,普遍文法と個別文法との関わりを考察するためには,前段階としてこの言語の音韻に関する個別文法と音韻構造自体の解明を急ぐ必要があり,そのことが経験的かつ理論的観点から意義のあることと認められ,その格好の題材を提供してくれるのである。Miner (1993: 28) が,"a comprehensive lexical phonology [of Winnebago] remains to be worked out." と述べて以来,今だにこのことは達成されていない。このため,本稿では Susman や Miner などウィネバゴ語研究者の信頼できるなオリジナルデータに基づいて個別文法を構築・モデル化し,更にその音韻構造の詳細を解明しつつ確たる証拠を提示した。このことが,本稿の1つの大きな意義となるであろう。
また第2の理由としては,この言語の音韻構造とその普遍文法への関わりを解明すれば,「ドーシーの法則という謎の多い個別的な音韻過程が,なぜこの言語のみに存在するのか」「アクセントとドーシーの法則という2つの現象間に,なぜパラドックスがおこるのか」という2つの大きな理論的問題が必然的に解決され,長い論争の歴史に終止符を打つという帰結が得られる点にある。生成文法内の音韻論研究において,この言語が 80 年代初期からこれまで取り上げられてきたのは,不透明性の問題としてこのパラドックスをいかに解決するかという理論的興味が歴史的に存在したからである。つまり,生成音韻論のウィネバゴ語研究史はパラドックス解決の歴史であったわけだが,残念ながらその試みは問題含みのままであった。そこで,特に最近の先行研究の解決法とその問題点を指摘し,表面上生ずるかに見えるパラドックスのからくりを明らかにしたことが,本稿の2つ目の意義である。また,そもそもドーシーの法則は所与のものとされ,そのメカニズムが問題とされることは稀であったが,パラドックスと同じく,制約と修復策との相互作用から適用されることを示したことが,3つ目の意義として捉えられる。
本博士論文の構成・各章の主な内容と主張を,以下に順を追って概観する。まず第1章では,ウィネバゴ語の類型上の位置を示し,歴史(比較)言語学や理論言語学(生成音韻論)においてこの言語が取り上げられた経緯とその問題点を提起することにより,この言語を対象とすべき理由と本稿の目的を明らかにした。また,各章の議論(主張とその根拠)から導き出される結論を,前もってこの章で提示した。
次の第2章と第3章は互いに有機的関連を持ち,(1a) と (1c-e) の目的の達成に,それぞれ対応している。すなわち,第2章はウィネバゴ語の個別文法構築(レキシコン全体像のモデル化)を試み,様々な音韻過程の相互関係を巨視的に考察したのに対し,第3章はそれを前提として,この言語のセグメント・モーラ・音節・フットなどの音韻構造の微視的考察を扱った。(1b) はいずれの章においても言及し,第2章では素性構造と音素配列に関する制約をいくつかの音韻過程との兼ね合いから考察し,第3章ではセグメントの分布・結合の在り方を音節構造との兼ね合いで取り扱った。
第2章での最も大きな主張は,ウィネバゴ語のレキシコンは,循環レベルと非循環レベルから成る語彙レベルと,随意レベルと義務レベルから成る後語彙レベルから構成され,その4つのレベルごとに様々な音韻過程を捉えるための各種規則が順序付けられつつ所属しているということである。4つのレベル自体も,上で提示した通りの順序付けを持つ。このことを立証するため,本稿では様々な音韻過程を包括的に提示し,各種規則の存在を証拠付け,その順序関係を同定した。それにより,非循環レベルにおいては,「音韻部門における諸過程の適用が,形態部門のそれよりも先に順序付けられている」とする Borowsky (1993) のモデルが支持されるという帰結が得られた。また,普遍文法に属するいくつかの制約(原理)が存在根拠を持つことを実証しつつ,それがウィネバゴ語の個別文法においてどのようなパラメータ値を持つか特定し,各種規則にどのように働きかけるかを明らかにした。
次に第3章では,議論の前提として,まずは音節構造と韻律構造の存在根拠を提示した。音節構造は,1) 子音結合の非対称的分布の説明や,2) 可能な三連続子音結合の予測,3) 体系的空白の説明,4) 形態素境界との関連,5) 音節の歴史的発達,6) 韻律構造との関連などに,その根拠を求めた。韻律構造は,1) 強勢の寄生的・抽象的性質,2) 音調との関連,3) 弾音化・閉鎖音挿入・l の無声化・閉鎖音の有気音化・リズム規則などの適用可能性,4) 可能な強勢移動の予測,5) 弱強格長音化・強弱格短音化の存在などの観点から,証拠付けを試みた。その上で,ドーシーの法則の適用は,音節化の過程で生ずるこのような音節構造に対する違反を,母音挿入と母音調和によって埋め合わせる修復策であることを主張した。それにより,長年来その適用理由が不明であったこの音韻過程に,初めて原理的説明を与えることができた。また,ドーシーの法則とアクセント付与が作用して生ずる表面上のパラドックスは,母音挿入が適用される位置が原因であることを突き止めた。すなわち,通常のフット内部や外部に母音が挿入された場合には必ず普遍的制約の違反が生ずるため,アクセント規則が再適用されることにより修復されるのに対し,韻律外フット内部に母音が挿入された場合には普遍的制約から違反が見ず修復不要であることにパラドックスの原因を求め,この理論上の問題に原理的解答を与えた。
第4章は,第2・第3章での帰結を要約し,これまで述べてきたような本稿全体の意義や理論的意味合いを整理したものである。
この博士論文のように,段階的派生を前提としたレキシコンモデル(語彙音韻論)に基づく文法観は,90 年代以降主流となった最適性理論 (OT) のそれとは対立する。なぜなら,OT では個別文法が「序列化された普遍的制約群の集合」と定義され,個々の語形の最適性がこれらの制約群によって並列的に処理(つまり,1つの入力から生成された無限の出力が同時に評価)され,規則による段階的派生が前提とされないからである。段階的派生があるとすれば,入力から出力への生成は1段階のみである。しかし,現在のところこの枠組みは,(1a) のような個別文法の構築には適さないように思われたので,語彙音韻論的文法観を本稿では採用した。
その第1の根拠は,OT の「普遍的制約の序列性仮説」にある。つまり,この理論では,生成や評価のための道具立てとして序列化された普遍的制約しか持たず,個別的規則を認めない。従って,1つの音韻過程(アクセント付与など)ですら,どのような制約がどのような序列を成すかについて精密な考察が必要であり,用いる制約が普遍的でかつ独立の根拠を持つことを証明せねばならない。ましてや,多種多様な音韻過程の1つ1つにおいて,どのような裏付けを持つ制約群がどのように序列化されるかを同定し,それらの制約群が全体としてどのような序列体系を成すのかを矛盾なく構築していくことは,多大な困難を極める。それに対し,個別的規則を認める語彙音韻論では,1つの音韻過程は1つの規則を仮定すればすむところである(同時に,これら個別的規則に課せられる普遍的制約も,独立して存在してはいるが)。
また第2に,「並列処理仮説」も,個別文法構築には問題となる。すなわち,1つ1つの音韻過程がそれぞれ別個に働く場合もさることながら,複数の音韻過程が相互に働きあって,それぞれが単独で働く場合とは異なった効果をもたらす場合には,相互の制約群がどのように序列化されるかを同定するのが難しくなる。制約間に順序関係はなく,序列化はなされるものの並列的に働くからである。本稿では,ウィネバゴ語がまさにこの好例となることを示し,ドーシーの法則がアクセント付与・e/a 母音変換・鼻音化・反復語形成などと相互に働き合うことを,Susman や Miner のデータから実証した。そして,これらの規則群がある種の順序関係にあることを証拠付け,段階的派生を仮定する枠組みでは,これら複数の音韻過程の相互作用が捉えられることを明らかにした。
最後に,OT が個別文法構築にとって難点となる第3の根拠は,「並列処理仮説」の論理的帰結としての「非段階的派生仮説」にも求められる。つまり,1つの入力から無限の出力候補への生成が1段階でなされ,複数の生成段階を持つ派生を認めないので,個別文法に往々にして存在する音韻過程の適用区分(音素的/異音的,循環的/非循環的,構造保持的/非保持的,範疇的/連続的,義務的/随意的,語彙内部/語彙間,語彙的例外の有/無など)を捉えるのが困難になるのである。本稿では,ドーシーの法則とシュワー挿入や隣接強勢移動と非隣接強勢移動などの適用様式を区分するため語彙レベル/後語彙レベルの存在を立証し,語彙レベルにおける様々な音韻過程の適用様式の違いにより循環レベル/非循環レベルの存在根拠も示したが,現在の OT では,このようなレベル区分を「序列化された普遍的制約群の集合」から成る個別文法のシステムにいかなる形で取り込むかが最大の課題となっている。