言語情報科学・98年冬学期
認知と言語構造 (T. Ohori)
<Syllabus>
認知言語学の概説を目指します。学説史的背景につづいて、カテゴリー化、メタファー、知識構造(フレームとスキーマ)、構文ネットワーク、推論のメカニズム、意味変化と文法化(含む個体発生 vs. 系統発生)、類型論的考察、言語と文化、等のテーマについて論じます。言語構造の概念的・伝達的基盤の考察を通じて、「ことばとこころのサイエンス」への関心が深まれば幸いです。評価は数回の小課題と期末のレポート又はテストを基にします。テキストは特に指定しませんが、随時クラスで参考文献を示し、必要に応じてコピーを配布します。
全体の構成
- 序論
- 事象構造 --Q's & Com's
- カテゴリー化 --Q's & Com's
- 知識構造・1 --Q's & Com's
- 知識構造・2 --Q's & Com's
- メタファーとメトニミー --Q's & Com's-1 Q's & Com's-2
- 構文的知識・1 --Q's & Com's
- 構文的知識・2 --Q's & Com's-1 Q's & Com's-2
- 推論と文脈
- 文法化 --Q's & Com's
- 文化・談話・認識
- 展望
Assignment #1 Assignment #2 (plus some references) Assignment #3
概説的文献 Part One
a)J. テイラー『認知言語学のための14章』(紀伊国屋書店)[原著1989年、1995年改訂版、翻訳1996年]
b)河上誓作編『認知言語学の基礎』(研究社出版)[1996年]
c)F. ウンゲラー&H.-J.シュミット『認知言語学入門』(大修館書店)[原著1996年、翻訳1998年]
−−以上、教育的配慮をもった概説。
d)中右実『認知意味論の原理』(大修館書店)[1994年]
e)吉村公宏『認知意味論の方法』(人文書院)[1995年]
f)山梨正明『認知文法論』(ひつじ書房)[1995年]
−−題名は一般的だが、d)は著者の理論を展開した研究書。e)はケーススタディーをまとめた性格が強い。f)は幅広く論じており概説書ともいえるが、体系化の仕方に著者の個性が強く出ている。
g)追加:岩波講座『言語の科学4・意味』[1998年]は4通りの概説をおさめたもの。中でも坂原茂「認知的アプローチ」は概説としてよくまとまっている。
h)追加:杉本孝司『意味論2・認知意味論』[1999年]は「意味論」といいつつ、事実上、文法を含め認知言語学の各理論をまとめたものになっている。メンタル・スペース理論についても一章をさいているのが他と違うところ。
目次の対応表
−−ウンゲラー&シュミットはU、河上他はK、テイラーはTで表記
<序論>
K「2 カテゴリー化と認識:2.3 概念構造の形成」
<事象構造>
U「4 図と地:4.1 図と地、トラジェクターとランドマーク」
U「4 図と地:4.2 図と地と二つのメタファー」
U「5 フレームと注意のアプローチ:5.2 事態フレームと注意対象の顕在化」
K「1 知覚の理論と認知言語学」
<カテゴリー化>
U「1 プロトタイプとカテゴリー」
U「2 カテゴリー化のレベル」
U「6 認知言語学のその他のテーマ:6.3 語彙変化とプロトタイプ」
K「2 カテゴリー化と認識:2.1 カテゴリー化とカテゴリー論 (pp. 27-38)」
T「1 色彩のカテゴリー化」
T「2 カテゴリー化への古典的アプローチ」
T「3 プロトタイプ・カテゴリー:その1」
T「10 文法カテゴリー」
T「14 最近の発展(1995年)」
<知識構造>
U「1 プロトタイプとカテゴリー:1.3 コンテクスト依存性と文化モデル」
U「4 図と地:4.1 図と地、トラジェクターとランドマーク」
U「4 図と地:4.3 その他のタイプの際立ちと認知処理」
U「5 フレームと注意のアプローチ:5.1 フレームとスクリプト」
K「2 カテゴリー化と認識:2.1 カテゴリー化とカテゴリー論 (pp. 39-53)」
T「4 プロトタイプ・カテゴリー:その2」
T「5 言語的知識と百科辞典的知識」
T「6 多義と意味の連鎖」
<メタファーとメトニミー>
U「3 概念を構成する仕組みとしてのメタファーとメトニミー」
U「6 認知言語学のその他のテーマ:6.3 語彙変化とプロトタイプ性」
K「2 カテゴリー化と認識:2.2 Lakoff and Johnsonのメタファー論」
K「3 語彙の意味研究」
T「7 カテゴリーの拡張:メトニミーとメタファー」
<構文的知識>
U「4 図と地:4.2 図と地と二つのメタファー」
K「4 構文研究」
T「8 形態論と統語論における多義的カテゴリー」
T「11 プロトタイプ・カテゴリーとしての統語構造」
<文法化>
U「6 認知言語学のその他のテーマ:6.2 文法化」
K「5 史的研究−−文法化・意味変化」
<文化・談話・認識>
U「5 フレームと注意のアプローチ:5.3 言語間でのフレーム化の違いと物語テクストにおけるその使用」
<展望>
U「6 認知言語学のその他のテーマ:6.1 類像性」
U「6 認知言語学のその他のテーマ:6.4 外国語教育への影響」
T「13 カテゴリーの習得」
概説的文献 Part Two (国内一般雑誌から)
『言語』(大修館)
・「変容する言語学」(1991-10)
・「現代言語学のトピックス」(1992-7)
・「言語研究の新しいパラダイム」(1992-12)
・「文法カテゴリーと認識」(1993-10)
・「言語類型論の現在」(1994-9)
・「デカルト派言語学を超えて」(1996-4)
・「意味のありか」(1997-9)
・「入門・認知言語学」(1998-11)
『日本語学』(明治書院)
・「認知科学と日本語研究」(1995-9)
『認知科学』(共立出版)
・「認知言語学」(1996-3)
『英語青年』(研究社)
・「認知言語学の最先端」(1997-3)
・「文法と認知の接点を探る」(1998-12)
『英語教育』(大修館)
・「認知意味論から見た英文法」(1994-4〜1995-3連載)
その他
言語学に関する予備知識は多少は想定するが、不可欠ではない。1−2年の時に授業を取っていれば大体よい。意味論の初歩的な概説としては池上嘉彦編『英語の意味』(研究社)を勧めておく。異なったバックグラウンドの人たちが来ると思われるので、分からないことはためらわず質問すること。
言語情報科学-I('98 Winter, T. Ohori)・Assignment #1
<はじめに>
○課題:a) Erbaughの論文を読み、study guideの「Q」のついた箇所(6個)を考察;b) これまでの授業に基づき、下のreview
questionsを考察。長さは適当。ただし、長くなりすぎないこと。
○それから、今のところ専攻のホームページが置いてあるコンピュータが活動停止中で(シリアスな状態で、回復には時間がかかるとのこと)、いつものQuestion & Commentsがアクセスできないので、これについては次の授業の時にプリントしたものを配ります。
<Study Guide>
Mary S. Erbaugh "Taking stock: the development of Chinese
noun classifiers historically and in young children", in
Collete G. Craig (ed.) Noun Classes and Categorization.
Amsterdam: John Benjamins. Pp. 399-436.
○この論文は分量もやや多く、予備知識がないと読むのが難しいので、補足的な解説をする。言語学用語辞典のようなものは何通りか出ているので、図書館などで参考にすると良い(「英語学事典」、「国語学事典」といったものも参考になる)。英語圏ではここ10年くらいの間に何種類も出ているが、日本語のものは追いついていない。
○以下、部分的ながら注釈をNで順に加える。「読解」のためのチェックポイントをQで示す。
1. Introduction
p. 399
N classifierが何かは今日の授業でわかったと思う。
N phonemic mergerとは、歴史的に音韻が変化し、もともと2つ(またはそれ以上)の異なった音韻であったものが同一の形になってしまうこと。例えば*trekと*trepというペアがあったと仮定して、語末の子音脱落によりどちらもtreになってしまうような場合。
N 1)-6)のポイントはここで分からなくてよい。結論で繰り返されている。
p. 400
N 上の段落で言っている"Chinese classifier use is variable rather than
categorical"というのは日本語の場合も同様。Categorialというのは古典的な二者択一的分類と同義。
Q1 ここで「山羊」について何通りかの類別詞の使い方が示されている。著者は言っていないが、それぞれの選ばれ方をカテゴリー化のレベルとプロファイルという概念をもとに解説せよ。
p. 401
N 多様性がどこから来るかという点。この部分はスキップ可。
N 以下のデータの分析でtype/tokenという用語が出るが、typeとはここでは語彙として認識される対象、tokenとはその出現頻度。例えばthe
boy drove the ball over the fenceといえばtheという語=タイプとしての出現は1だが、頻度=トークンとしては3ということになる。ちなみに、これは音や文字のレベルでも言える。上の例ではeという文字はタイプとしては1度、トークンとしては6度の出現。
2. Description of Chinese noun classifiers
p. 402
N Sino-Tibetanはシナ=チベット語族。Measure classifierは量を表す(測る)もので、ちなみにjin
(pound)は斤、ping (bottle)は瓶、等。対象の性質を表した語でないことに注意。したがって類別詞というよりは計量詞といえる。Special
classifierはカテゴリーの特定化されたもの。この論文ではspecial classifierを扱う。
p. 403
N pi (horse-thing)は匹、zhang (flat thing)は張。その他はp. 405を参照。
p. 404
N 5行目、"The core shape classifiers..."にいうcoreは中心的メンバーという意味、"family-defining
ones"は形ではなく用途、性質などに基づいたクラス。
3. Adult classifier use
Q2 このセクション全体を通じて明らかになった傾向の中で、特に常識的に思われていることと異なる事実とは何か。
N The Pear Storiesについての説明は背景的情報なので、スキップ可。
4. Child classifier use
N 本文中にも説明はあるが、2.10などは2歳10カ月のこと。
p. 414
N "Skinny"とかは専門用語ではなく、直観的にまとめたものなので、何となく分かればよい。
4.1 Method
N 一応読めばわかると思うが、台北在住の北京語を母国語とする家庭に育つ2歳児を対象。本人の発話や親との会話を録音。この節の2段落目の"longtitudinal
study"とは、一人の子供の成長をフォローする研究(何人もの子供を同時的に調べるのでなく)。Contextualizationとは、会話が行われる場面=コンテクストについて観察者が小声で(本文にはwhisperとある)記録すること。
p. 417
4.2 Early use
Q3 ここでいうlexical stageとはどのようなものか、要約せよ。
4.3 Later use
N Piagetian action schemaとはピアジェ(今世紀後半に活躍したスイスの発達心理学者)の学説にいうschema(もともとフランス語で書かれたので「シェマ」と日本語化される。認知言語学でいうスキーマとは違う)のうち、action、つまり身体的な操作を通じて概念習得がなされる過程をいう(...というのは私のおぼろげな記憶なので、心理学事典などを見て自分でチェックすることをおすすめします)。
p. 418-
Q4 この表から著者の主張が理解されるか確認せよ。また、著者が言うことの他に何がくみとれるか。P. 422の表についても同様のことを考察せよ。
p. 420
N 3行目のnominal referentとは直訳的には「名詞的指示対象」。つまりある語によって指される物のこと。
4.4 Broadening use
p. 424
N 余談ながら、Sun Wu-kongは孫悟空。なお、ここの例文はデータとした絵本の状況設定が込み入っていることを述べているので、議論の本筋とは関係ない。
4.5 Discourse strategies
p. 423
N discourse strategiesとは、談話=コミュニケーションが効率的に進行するように言語表現を組み立てるさまざまな原則・方法のこと。
Q5 5行目から。Mandarin classifiers are individually rather than grammatically
triggeredとはどういうことか。この節の説明を参考に自分なりにまとめよ。
5. Historical trends
N 王朝の名前は歴史の知識でわかると思う。Shangは商だが、日本の教科書では殷ということがある(少なくとも私はそう習った)。
Q6 幼児の習得と歴史的変化との共通性はどのような理由によるものだと著者は言っているか。
p. 428
N (non-)quantified useとは計量的に使う語。P. 402の解説を参照。
6. Summary
p. 431
N 幼児の習得(=個体発生)と歴史的変化(=系統発生)の間に並行性をもとめるのは興味あるアプローチであるが、両者の間には本質的な違いも存在するはずである。この論文では取り上げられていないが、並行性の限界についても考察する必要がある(どういう点で異なりが出てくるか、等)。
<Review Questions>
1「動物園のクマがかわった」という文には何通りかの解釈がある。そのうち2つを取り上げて、カテゴリー化のレベルという観点から違いを説明せよ。
2 プロトタイプとカテゴリー化の分析として、類別詞が特に「うまくいく」のは何故か考察せよ。
言語情報科学-I('98 Winter, T. Ohori)・Assignment #2
冬休みの課題(締め切り・1月11日)
1)野村論文を読んで、疑問点、感想を述べる。
2)野村論文をモデルにして、何らかの言語ついて具体的なメタファーの分析を行う。文章・会話を集め、例をピックアップして考察すること。
3)プロトタイプについて、そのリアリティーを「実証」するための手段を考案し、メリット、デメリットについて論じなさい。
○はじめの2つは実質一つの課題です。今回は日本語で書かれていて、読みやすいので特に注はつけませんでした。授業で取り上げたメタファー論のちょうどいいケーススタディーとして読んで下さい。
○分析の方は、本格的にやるといくらでも長くできるので、面白いアイデアが出て例示ができていればよし、とします。日本語についても、また他の言語をよく知っているヒトはそれでもOKです。人間や社会の見方に関するもの、文化的な比較が可能なものだと論が展開しやすいでしょう。
○三番目は、決まった答えがあるわけではないので、「思考実験」(thought expriment)とでも思って下さい。同様の問題提起は、イメージスキーマやメタファーといった装置についてもできます。なお、脳を直接外科的に調べる、というのは「禁じ手」とします。まあ、ゲームのルールということで。ときどき質問に会うのですが、脳神経科学は部外者が期待するほど発展しているわけではなく、基本的には脳機能の局所性、つまりどのようなタスクを行っているときに脳のどんな部分が活性化するか、といった問いかけが中心のようです(しかも、個人差や実験誤差が意外なくらい大きい)。遺伝子生物学にしても同様で、ときどき「言語能力の元になる遺伝子を発見!」というような記事が出ますが、これは「毛生え薬を発見!」と同じ程度のマコトです。したがって、ある概念/語のプロトタイプの貯蔵されている脳神経なり遺伝子なりを特定することは、現在は不可能です。結局、言語学者が一番知りたいことというのは直接触れることができないのです。
○クラスで配ったプリントでは文献案内をしていなかったので、補足します。
Croft, William (1991) Syntactic Categories and Grammatical Relations.
Chicago: University of Chicago Press.
Dixon, Richard M. W (1977) "Where have all the adjectives
gone?", Studies in Language 1: 19-80. (同名書、1982年刊、Amsterdam:
John Benjaminsに再録)
Englebretson, Robert (1997) "Genre and grammar: predicative
and attributive adjectives in Spoken English", Berkeley Linguistics
Society 23.
Frawley, William (1992) Linguistic Semantics. Hillsdale: Lawrence
Erlbaum Associates.
Givon, Talmy (1979) On Understanding Grammar. New York: Academic
Press.
-- (1984) Syntax: A Functional-Typological Introduction. Amsterdam:
John Benjamins. Vol. 1.
Hopper, Paul J. and Sandra A. Thompson (1984) "The discourse
basis for lexical categories in universal grammar", Language
60: 703-752.
-- (1985) "The iconicity of the universal categories 'noun'
and 'verb'", in Haiman, John (ed.) Iconicity in Syntax. Amsterdam:
John Benjamins. Pp. 151-183.
Langacker, Ronald W. (1987) "Nouns and verbs", Language
63: 53-94.
Ohori, Toshio (1994) Review article of Croft (1991), English Linguistics
11: 318-339.
Thompson, Sandra A. (1988) "A discourse approach to the cross-linguistic
category 'adjective'", In: Hawkins, John (ed.) Explaining
Language Universals. Oxford: Blackwell. Pp. 167-210.
Uehara, Satoshi (1998) Syntactic Categories in Japanese: A Cognitive
and Typological Introduction. Tokyo: Kurosio.
クラスでも説明したように、Givon, Hopper and Thompson, Langackerはそれぞれの立場からの名詞と動詞の規定の試み。「それぞれ」とはいっても認知的・機能的である点は共通。Frawleyは意味論の良質で高度な概説だが、3章は名詞というカテゴリー(彼の用語ではentititiesという意味的概念)の規定に当てられており、この三者の議論の要約がある。Croftはそれらを進めてまとめようとした部分が本全体の約3分の1を占める。読みずらいという人はOhoriでとりあえず概要をつかむとよいかも。UeharaはCroft的な考えに基づいて日本の伝統的研究もふまえつつ品詞論を展開したもの。Dixonは形容詞の言語ごとの現れ方の違いを扱ったもので、Thompsonはその談話レベルからの説明の試み。Englebretsonはその路線の延長上でよりきめ細かいデータの分析を行ったもの。 この他、品詞論自体は先行研究もやたらと多く、重いものだが、認知的なものはむしろ(主語や格表示といったテーマに比べれば)少ないので、落差を意識しつつ進めれば興味深い研究が可能かもしれない。他にも、よく知られていない言語、品詞の転換や単複の区別などに目を向けると色々と可能性があるように思われる。
言語情報科学('98 Winter, T. Ohori)Assignment #3, due Feb. 5
L. Michaelis & K. Lambrecht, "Toward a construction-based
theory of language function: the case of nominal extraposition"について
<質問>
Q1 NEとRDの統語論的(syntactic)な相違を要約せよ。
Q2 NEとRDの語用論的(pragmatic)な相違を要約せよ。
Q3 pp. 220-、LFGとの比較で構文中心的アプローチの利点を述べよ。
Q4 p. 228、scalar propertiesとはこの場合どのようなもので、NE構文ではどう実現しているか。
Q5 p. 229、NP refers metonymicallyとはこの場合どのようなものか。
Q6 p. 244、ここの表にあげられている各種構文について、2つを選んで本文中の説明に基づいて特徴を解説せよ。
Q7 日本語(もしくはあなたのよく知っている言語)について、Construction Grammar的アプローチで分析すると面白そうな構文、現象をとりあげ、分析の可能性について考察せよ(時間の制約があるので、実際の分析までは進まなくてよい)。
<注(用語等)>
Sec. 1
p. 215
properties of information structure--後述、focusやactivation等のこと。
illocutionary force--発話がもつコンテクスト内での効力。大きなカテゴリーとしては「命令」、「感嘆」など。
p. 216
段1 Right Dislocation (RD)--これは本文の説明通り。
a pronominal subject which apparently corefers with a...--「同一指示」、つまり同じ対象を指しているということ。
段2 monostratal, unification-based--monostratalとは「変形」規則を認めないこと。つまりある構造から別の構造を派生して(例:能動->受動)文の形を説明する、ということはしない。これだと設定する構文のタイプは増えるが、計算量は少なく、シンプルになる。Unificationとはそのための計算、つまり部分を構成する要素の情報を集積し(=「単一化」)、全体の構造をつくりだすプロセス。細かいことはややこしいのでパス可。
段2-3ハハハ inheritance--これはunification的分析をするときに、ある構造と別の構造との関係づけを指していう。全体−部分なら(文に対する述語など)hierarchicalとなり、類似した構造の関係づけなら(NEとRDなど)networkという...はず。
p. 217
ラテン語については私も分からない。パス可。
段4 各種「構文」について列挙されている。linking constructionとはスタンダードな文法理論ではargument
structure(項構造)ということが多い。constituencyは後で出る、語の連続がまとまった句をなしうるか、という単位の形成にかかわる概念。これもスタンダードな分析では「構文」とはわざわざ言わず、文法規則の一部として見られる。
taxonomic epiphenomena--taxonomicというのは、一般原理を考察せずに個々のデータを整理分類して満足する、という意味でチョムスキー派にとっては対抗勢力を悪罵するときの決まり文句。したがってチョムスキー派からすると、「XX構文」などというのは限られた一般原理のはたらきから事後的に導かれるもので、基本的な分析上の単位ではないことになる。この論文(およびクラスでとった立場)はその逆。
p. 218
段1 パス可。
段2 こちらは重要なことを言っているのでよく読むこと。
p. 219
パス可だが、identifiability, activation, topic, focusといった用語についてはちゃんと理解しておくこと。注も参考になる。
denotata--referentと(違うときは違うのだが)ほぼ同じ。つまり言語表現の指し示す対象。単数形denotatum。
p. 220
段1-2 いちおうパス可。
段3 locative inversion--典型的には場所や方向を表す句が文頭に置かれることによって倒置が起きること。Under
the table is lying a catなど。
theme--「テーマ」ではなく、項構造における意味役割の一種。存在や移動の主体となるものをいう。上のa catなど。これに対し変化をこうむるものはpatient(被動作者)と定義される。overlay
themeとかは、普通言わない。Bresnanの特殊な命名。
p. 221
段1 argument structure--既出。「議論」という意味ではない。ただし、この論文中では専門用語としてでなく地の文に議論という意味で出てくることがあるので、そのときは注意。
段3 lexical projection--語彙の(この場合は述語動詞の)意味構造が出発点となって文全体の構造が作られるということ。これを小から大への「投射」という。LFGはこれを中心とした理論。CGはprojectionだけでは説明できない要因があると考える。つまり構文という枠の与える情報を認める。
p. 222
例文の*印は、それが「非文法的」、つまり母語話者によって認められない文であるということ。?は言わなくもないが不自然なもの。
p. 223
段2 postpredicate NP--述語動詞の後の名詞句。NEならbe動詞の後の要素。
段3 determiners--基本的には名詞句に最大のまとまりを与える要素で、英語ではthe, a, some, myのようなもの。「限定詞」と訳す。この場合whatもその一種と数えている。
p. 224
constituency--既出。ただしいきなりでは難しいかもしれない。
p. 225-227.
2.2 Construction Grammar...--この節はテクニカルなので全部理解できなくてよい。図1-2もいきなりでは難しい。
Figure 1--AECはAbstract Exclamative Construction。P. 237に出てくるので要注意。
p. 228
段2 scalar properties--「尺度的」ということ。反対語をとってみると、「大−小」などは「サイズ」という一つの尺度上での位置の違い。「男−女」などは2者択一なので尺度的ではない。
p. 229
段1 scalar parameter--ここのparameterは広義の可変項ということで、生成文法でいう「原理とパラメータ」とは別物。
段3 cardinality--難しい言い方だが、要するに数。「絶対数」と言ってもよい。
p. 231
段4 これ以降、用語の定義が入るのでしっかり読んでおくこと(accessibility, identifiability等)。
p. 233
(27)--Qとはしないが、ここに現れた違いは明確で特徴をよく表している。
p. 234
段2 noncanonical ('inverted')--Canonicalとは基本的でより正統的という意味。それに対しNEなどの語順はinvertされているとする分析が一方である。ただし著者はこれには懐疑的(だから引用符がある)。
(29)--Presuppositionは前提、assertionはそれを背景としてなされる主張(専門的には言明と訳す)。
p. 235
5. NE as an instance of...--この節は重要だがさすがに難しいのでパス可。あとでじっくり読み直すとよいかもしれない。
<Questions & Comments>
[以下はクラスからのコメント&質問に意見を書いたものです。授業の補助になればと思います。クラスからの質問・コメントは>印で示し、こちらからのコメントは−−で示しています。]
***全体について
>個々のことは理解できるのですが、概観図のようなものが全く浮かんでこないので、それが何の役に立つのか、どういう意味を持つのかわかりません。
−−難しい質問です。私見では講義には天下り式と積み上げ式があり、前者を取れば「認知言語学の目標はxxである、それを定めたのはyyという学者である、これをzz理論といい、それが現在の”正しい”アプローチである」というようにできるのでしょう。ただ、私はこれには拒否感を覚えます。「何の役に立つのか、どういう意味を持つのか」はしょせん自我の産物であると考えます。私としては考える過程を尊重したいので、積み重ね型でやっています。まあ、チョムスキー派の門を叩けばそういった質問は「尊師」が明快に断じてくれるんでしょうが...
>認知言語学関係の本をある程度は呼んだのですが、その方法論、全体を統一する枠組みとして、どうも体系だった形で自分の中でまとまらないので若干悩んでいます。ただ単純に読んだ本の数が少ないとかそういう要因ゆえなら今後原典にもあたるつもりなので杞憂に終わると思いますが。ということで、概説としてこの授業がそれをまとめるきっかけになるのでは、とも思っていますのでぜひ統一的に扱ってください。
−−はあ。期待に応えたいと思います。多少つけ加えるならば、一つの学問としての統一性はどこを見ても実はあまり明快ではないようです。例えば「物理学」やら「生物学」やら「経済学」やらが一つの学部、学科として存在するのは多くは歴史的、政治的理由であって、物理学においてすら真の統一理論は不在なわけです。経済学でも同じ学部にマル経だの近経だのがあったりするし。もちろん、認知言語学はそこまで成熟していないとはいえ、相互に強く(というか非生産的な形で)矛盾しない限りにおいて複数のアプローチが共存することはおかしくないと思います。たとえていえばunixのシステムツール群みたいなものでしょうか。ファミコンのような閉鎖した統合性は期待しないで下さい。
>言語学というのは、方法論的にかなりの幅がある分野だと思うのですが、認知言語学というのはその中で今どんな位置にあるのでしょうか。いずれはほかの方法全体を包括してしまう可能性もあるのでしょうか。
−−多少誇張して宣伝すれば、「まさにその通り」といえます。それはさておき、多少醒めた目で見ても、認知言語学の問題意識は言語研究の本来あるべき取り組み方であると私などは思います。だからこそ、最近では割合多くの、とりわけ若く有能な人たちの注目を集めているわけです。ただし、若いということもあって学会の政治的機構の中で主流などととうてい言えない状態ではあります。
>私は言語学に関して全くの素人だからよくわからないのだが、この授業では言語の理論や構造について余り厳密には扱わないのだろうか。もっといえば私は数学的な記述について期待していたのだが。
−−時間的制約も関係しますが、いわゆる数理的形式化は行わないと思います。この点は2段階に分けて答えることにします。その一。いかなる理論も適当な記号化を行うことで形式的記述に仕立て直すことが可能であるし、これは興味をもってくれた人がいずれ行うことを期待しています(事実、認知言語学で言われていることをコンピュータシミュレーションに応用している人もいる)。私自身はそのようなコーディングをする能力はありません。学際的研究のためにはぜひともパートナーが必要とは思いますが。その二。古典論理学の形式化が認知言語学の見ているような研究対象を的確に表現できるかという、より根本的な問題があります。例えば、人間の知覚は二値的というよりも確率論的です。またパタン認識などは直線的なアルゴリズムにはなじまないとも言われます。認知的アプローチによくなじむ形式化は離散的計算よりもニューラルネットのようなもの、しかも再帰的手続きを含んだ(したがってカオスが発生するような)ものかも知れません。こちらは上よりも積極的な理由です。
>言語観のところの客観主義と主観主義(?)について詳しい話を聞かせていただきたいのですが。
−−客観主義については比較的分かりやすいと思います。要するに、いわゆる現実なるものは人間から切り離されてそこにあり、人間による事象の理解は外部世界のコピーを頭の中に作ることだ、という考えです。外部に自律的に存在するものなら、科学的方法で計測可能であるし、真偽の一律な(つまり話し手の捉え方に左右されない)規定もできる、というわけです。主観主義は少数派だったこともあり、あまりちゃんと説明できないのですが、基本的には個人の世界観が全て、ということです。この場合人と人との共通項は考慮されないため、コミュニケーションの成立について有意義な視点は提供されません。認知言語学がよりどころとする経験基盤主義は主観的な世界の捉え方を認めつつも、身体性や反復的な日常経験に基盤を求めることで経験の共有を説明します。
***図と地について
>「自転車(F)が12号館の前にとめてある」という例について、自転車よりも移動性の高いもの、例えばとんぼなどが登場すれば、time spanで考えて「とんぼ(F)が自転車(G)のまわりをとんでいる」となるということでいいのでしょうか。
−−その通りです。人間の情報処理の文脈依存性ということで、何がFとして際立つかは相対的な問題といえるでしょう。
>地(ground)は基準点になっているというところがおもしろかったです。「12号館は僕の自転車のそばにある」といわれたら、その人の世界の中心は買ったばかりの自転車なのか、と思ってしまいます。
−−なるほど、そうですね。このように図と地の取り方はその場における知覚の問題なので、言語的に(文法的に)単独でダメ/OKとは言えないわけです。いいかえれば、言語形式が解釈の可能性を限定し、話し手の事態把握とのマッチングが行われると言うことです。
>うさぎかあひるかの絵では、どちらのとらえ方もFigure同士でGroundがないと思われますが、実際にはどんなことでしょうか。
−−Good pointでした。花瓶と顔はF/Gの反転がありますが、うさぎ/あひるは反転という感じではありませんね。「とらえ方によって対象が変わる」という例にはよいですが、「F/Gのとり方の違い」としてはあまりよい例ではないと思います。
***因果連鎖について
>言語化の際に因果連鎖の選択が行われていることと、それを理解する際に人間がその選択から漏れた情報を無意識のうちに付加しているのであろうということを今日、はっきり自覚しました。
−−今日の授業の目標はそういうことだったので、OKです。
>参加者数は項と同じですか。
−−結果として同じになることが多いです。参加者とは概念的なレベルでのものです。項とは、テクニカルには文構造の中で特定の文法的役割(主語、目的語など)をもったものを言います。ですからThe bullet hit the wallと言えば2つの参加者(=概念レベル)が2つの項(=文法レベル)によって表現されていますが、受動態にするとThe wall was hit by a bulletは参加者は2つのままでも、文法的役割を明確に担ったものは主語のwallだけです。このような場合には食い違いがあると言えます。
>eventと命題について eventは多値で命題は2値という表現と同じですか。
−−論理学で言う命題が真か偽かを判定するためのものであるのに対し、eventの定義とはそういうものではありませんから、2値でないことだけは確かです。ただ、「多値」というのがよくわかりません。
>事象構造について内容はよくわかりましたが、事象構造=言語化へのプロセスなのでしょうか?そこの関連がよくわかりませんでした。
−−知覚の対象としての事象構造と、それについて、いくつかの可能性の中から選択された事象構造と分けておくとよいと思います。前者はとらえ方の選択がされていない段階なので言語化以前、後者は言語化のプロセス、と定義しておきます。
>情報の選択→因果連鎖→言語化 というプロセスが直線的なのかどうか、互いに重なりがないのかどうかが疑問です。
>causal chainでの点と線は単純に1次元の表現でよいのでしょうか。細かく考えていくと枝分かれしたり並走したりしてしまうような気もします。
−−Good pointです。物理的な現象としては、因果関係というのは波紋のように広がるものなので、直線的ではありません。言語化の特徴として興味深いのは、多くの場合直線的な因果連鎖に還元されてしまうという点です。波紋のような広がりや入り組んだネットワークを表すような述語はちょっと思いつきません。知覚が情報の選択に基づいているということでしょう。
>passiveの方が影響が大きいということですが、他動性ということであればactiveと同等ではないか。
−−これはこちらの説明不足でした。他動詞分も受動文も「影響」が相応に多きいのは確かです。要は影響の受け取り方で、被動体が主語になったときはその視点から影響をみとめるということです。
>また、受け身の文の場合はどういうchainになるのでしょうか。
−−いいところに気がつきました。Chain自体は同じはずですが(作用の方向自体が変わるわけではない)、どの部分をどのように切り出すかは異なります。広くデータを見るといろいろと面白く、また難しいケースがありますが、最も単純に英語でJohn broke the glassに対するThe glass was broken by Johnを考えるならば、chainの終点部分が切り出され、「ガラスが割れている」という結果・状態を表わすと思います。能動文で因果連鎖の始発点(=動作主体)であるJohnは受動文では省略可能ですし、文の中核部分としては切り出されないわけです。
>「因果連鎖の中からどこを切り出してくるか」は、eventのとらえ方に依存するならば、とらえる細かさの度合いはどこからくるのでしょうか。 因果連鎖の話で、連鎖はどんなに細かくもおおざっぱにもなるという点に疑問をもちました。例えば、「AがBをたたく」でも「○→○」で表すこともできれば「Aが片手をあげて、ふりおろして、ある角度から...」と、いくつもの「○→○」をつなぐこともできるので精密度の行程の話になると、どういう連鎖がどの程度細かいかという基準がないと一定に計れないように思いました。
−−たしかにそうで、「一定に計る」というのは不可能であるともいえます。文脈に依存した形でしか捉え方が決まらないと思います。だからこそ、一見同じ事象を表していても、異なった構文がとられるのだといえるでしょう。
>最初から状態であるものについては事象構造はないのか。例:「私は20才です」
−−あります。ただし「構造」というほど複雑ではないかもしれません。事象構造を分類するなら、単一的な事象(「私は20才です」のような)と他動的な力が加わったり状態が変化したりするような複合的な事象に分けることができます。
>旗が立つ、旗を立てる、旗が立っている、という例がありましたが 旗が立つという場合に、特に立てるという言い方をしていないにも関わらず、誰かが立てたということを前提にしていることになると思いますが、この自発的に動くものと動かされるものは明確に区別されているのか、それとも明確に区別されずにイメージされているのか(先ほどの例だと、旗が勝手に立ち上がるイメージと区別されない)考えてみると不思議に思います。
−−興味深い指摘です。後で話題にしますが、事象構造の理解には、やはり言語外の一般的知識が参照されるということです。ふつう旗は勝手に立ったりしないので、「誰かが(意志をもって)立てた」ことが想定されます。これに対し、落ちる−落とす−落ちているといったセットだと、枯れ葉などは誰かが意志的に落とすとは限らないので、特にそういう前提は必要ありません。
>causal chainが興味深かったです。というのは、ある言説を批評するときでも、文章を書くときでもこの概念を使えるからです。特に文章で新鮮な、あるいは奇異な書き方というのは授業で習った事象の規定方法とは違うやり方をすればよいと思ったからです。
−−なるほど、興味深い意見です。ちなみに、日常的なことを極度に細密に描写するようなやり方は小説の技法としてみかけます(ロシア・フォルマリズムの人たちならば「異化作用」というでしょう)。
>できごと内部の情報が選択されることによって(figure/ground、状態、運動/変化など)実際、言語としてはどのように記述されるのかという実例をあげてほしかったです。
−−分析・記述の例はたしかに不十分でした。例を補えるよう考えておきます(例えばこのページ上で出すとか)。
>...「素朴な物理モデル」の話のあたりで少し混乱してしまいました。 「数式化」と「言語化」とを区別しているといういう意味ですか?
−−素朴な物理モデルそのものは一応理解されたとして、言語化の元となるのは科学的に正しいモデルではなく、日常的モデルだということです。逆に数式化に耐えるのは科学的モデルということになります。これはより広くは、「知識の分業」という話につながり、ある対象の把握についてその人がその場でどのような社会的役割を果たしているかによってモデルの選択も変わります。
***その他
>例を増やして下さい。重要なことはできるだけ板書して下さい。
−−時間の制約はありますが、注意するようにします。概念的なことでなく、個別例の話題が出てくるときは、プリントも活用するようにします。
>教職(英語の)に必要なのでこの授業をとっているので、教育の上での関わりの話をもう少ししてほしいです。
−−いやはや、単位のことは気が付きませんでした。これからもう少し個別の話題になるので、いろいろ話題が提供できると思います。予めいっておくと、認知言語学で出てくる話題は語学教育にも応用できるものが多く(細かい用法の意味的な違いに注目することから来るものです)、少なくとも説明の補助には容易になります。逆に言えば、日本の英語教育の現場で行われてきた指導法の一部が認知言語学の道具立てと一致することもあるわけです。
>修論で「驚きを表すドイツ語形容詞」について意味論・語用論的に研究しています。たとえば英語のsurprisedといえば快・不快の両方向あると思うのですが、confusedは不快だと思うのです。このような方向性を認知意味論的に説明できるでしょうか。
−−テーマ自体は面白そうですね。述語の方向性と価値観のむすびつきを説明することはできると思います。ただ、驚きを表すとなると、他にも面白いことは言えそうです。特に形容詞はバラエティーのある品詞ですし。「驚き」自体にも何通りかのシナリオがあるかもしれません。それはそうと、ドイツ語ではコーパスを使った用例検索はどのくらい広がっているのですか?
>レイコフ&ターナーの「詩と認知」は興味深いものでした。非常に非文学的なものにも深くメタファーの枠組みが関与していることに時折気がつきます。
−−有り難うございます。
>言語内の閉じた環境では、コミュニケーションが成立する訳ではない、という実感が伴った。「形式的な関数」としての言語が、現実との複合体として、より込み入った姿を示すということを学べるのだろうか?
−−目標はそういうことです。定説的な知識をパッケージで提供するというよりは問題提起を重ねていくというやり方になるとは思いますが。
***他分野との関連について
>言語を大脳の機能として定式化しようという野望はあるのでしょうか。
−−基本的にはイエスです。ただし脳科学自体が発展途上で、どんな仮説を検証すべきかについて絞り込んだ形で、かつ他の分野のものにも伝わる形で問題提起されていないという感じはします。また言語学者も、脳科学の中に言語を位置づけるような物言いはしているものの、外部に通用するような仮説の提起はあまりしていないというのが実状です。ただこれまで脳科学から言われてきたポイントのある部分は(他の理論よりも)認知言語学の考えを支持するものです。例えばデジタル計算よりもアナログが主である、直線的アルゴリズムよりもネットワーク型の並列処理である、という点など。右脳も言語処理に関わっているという研究もあります。これは言語の身体的基盤を考慮する者には好都合ですが、言語が線的なデジタル計算だとする者にはキツイ。
>前回の講義で、言語”習得”話が1言2言ありましたが、それと認知との関わりに興味があるのですが、何かそれを考える手がかりになるような文献はあるのでしょうか?
−−どういうことを念頭に置いているのかちょっとはっきりしませんが、今出ている『言語』の特集号にはそういう話題の記事があります。ただこれはチョムスキー派の考えに対する批判という側面があるので、ちょっととっつきにくいかもしれません。認知言語学からの言語習得へのアプローチはそれなりに研究が出ているのですが、個別研究が主で解説的なものはまだありません。なお、学派として形を成しつつある認知言語学とは別の、動物行動学なども含めた広い習得研究を行っている人として正高信男という人の著作を薦めておきます(『ことばの誕生』紀伊国屋;他に新書版の解説書が1つか2つ)。
>命題の表記の仕方について、もう少し詳しく解説がほしかったです。
−−おおっと。それとは違うレベルの説明をしているということを言いたかったので、教育的配慮には欠けたと思います。この授業では特にとりあげないと思いますが、スタンダードな入門書は沢山あるので参照して下さい。東大からも本が出ています(野矢先生でしたか...?)。言語学でよく読まれている論理学の解説書はダール他の『日常言語の論理学』(確か産業図書...原著はO. Dahl et al. Logic in Linguistics, Cambridge University Press)がとりあえず思いつきます。
>分析哲学との関係は。
−−分析哲学自体の範囲を私はよく知らないのですが、論理実証主義と認知論は明らかに食い違います(前者はやはり客観主義を奉じている)。日常言語学派と認知論は部分的に通じるところもあり、文脈依存性の重視はその一つです。ただ、哲学的アプローチの場合、とりあえず論理学は中心に置いておこうという志向が強いようです。
***一般的感想
>今日はとてもおもしろかったです。特に、西洋科学のfuzzyに対する考え方、そのお話はためになりました。
>認知神経科学でもプロトタイプについてやりましたが、文系の人間なので感覚的にわかりやすかったです。
>どこかで聞いたような内容も含んでいたが、こうして整理してもらうと分かり易くていい。知識や記憶のシステムの理解の助けにどれだけなるのか楽しみである。
−−それは光栄です。
>言葉は経験的に定義されている(複数に)ということを、改めて認識しました。でも今日の例の家具や学生の場合はそうですが、論理学の基礎となっている用語などは経験的に定義されているわけではないように思います(違いますか?)どのような分野においてはカテゴリーのメンバー間にバリエーションがあり、またどのような分野においては古典的アプローチのように必要十分条件を見出すことができるのか、ということを知りたいです。
−−難しい問題ですね。一つの答え方としては、それが普通の人間の活動に関する限りプロトタイプ的な分析があてはまると思います。「どのような分野において」というのは、ケースバイケースでしょうね。
***プロトタイプの本質について
>プロトタイプについては理解の行くところでもあるし、また非常に興味深いところでもありますが、今日の授業中の質問の状況からも考えるに、その記述は難しいなといつも思います。今後のレポート、そして修論を考慮したときに、プロトタイプ的と自分で思ったことが、そしてそれを記述したものが、どこまで妥当なのか、ことによっては論文を根底からゆるがしかねないような気がして不安ではあります。(それはただの不勉強なのか?)
−−プロトタイプの規定はたしかに困難がともないます。ただ、プロトタイプの重要性というのは、「あるカテゴリーのメンバーは全てが等しい資格をもっているわけではない」、「メンバー間のバリエーションは何らかの法則性(ないしよく知られた拡張のタイプ)のあらわれである」という2点にあるわけで、実際の分析上、何をプロトタイプとみなすかは実際には戦略的な問題だと思います。もちろん、はっきりと中心的なメンバーとはっきりと周辺的なメンバーを分けるぐらいは必要ですが、「中心」がたった一つである必然性はどこにもないので、拡張の関連づけさえしっかりしていれば分析としてはじゅうぶんリアルだと思います。
>「今の議論はどのような階層の知識でのカテゴリーに基づいてなされているのか」というのが、そもそも問題になってしまう場合もあるように思います。「ことばの意味」の違いがもとで、専門分野の違う学者同士で議論がかみ合わないのを見ることがあるので。
−−「階層」というのが何のことかちょっとわかりませんが、知識の分業のことなら、まさにその通りですね。
>今日の「カテゴリー化」という話はとても難しかったです。「プロトタイプ」は具体的でもなく、抽象的でもないならば、「プロトタイプ」それ自体も曖昧な定義だと思いました。経験からプロトタイプがうまれてくるのか、プロトタイプというものがあってから外界の認識が生まれてくるのかがわかりません。相互作用的なものでしょうか?知識の分業の理由は進化的(細かく定義しすぎると、すぐに行動に移せず先損が不利になる)に考えるとおもしろいと思いました。
−−第一の点はあらためて説明が必要でしょう。第二の、プロトタイプの生ずるところとについては、相互作用というのが一番現実的でしょうが、あとはその内容を確かめねばなりません。生まれながらのプロトタイプはあまり多くは考えられません。身体経験に結びつくようなものはその一種でしょう。
>家具のプロトタイプが我々が家具と認識しているものの中で最もポピュラーなものだとすると、民族、国が違えば、プロトタイプも変わってくる。とすると、プロトタイプに絶対性はなくて、「プロトタイプ」と「プロトタイプから外れたもの」の境界も曖昧なものになるので、結局「プロトタイプ」を決める意味もないのではないか?
−−プロトタイプがどの言語や文化にも共通するものだという主張をする人はいないと思います。同じ言語のつもりでも、世代間の差だってあるわけです。そうすると、プロトタイプの有効性は一定の共同体の中で認められると言えるでしょう。これは音素や語形の規定が何らかの共同体を想定して行われるのと全く同じです。ただしより抽象化したレベルで、プロトタイプとはどのような一般的特性をもっているか、という問いを出すことは可能です。
>プロトタイプは共時的に違うが、通時的にも変化するのでしょうか?
−−答えはイエスです。名詞や形容詞のようにモノを表わす語ならば現実世界のモノや価値観の変化につれて変わるでしょう(例:「家」)。いっぽう、もっと抽象化されたもの、例えばXX構文とか、語の場合なら前置詞、後置詞などは価値観の変化には左右されないと思います。この場合は他の理由による変化(含、テクスト中での再解釈)が関わってきます。
>類義語とは家族的類似性を持った語のグループのことでしょうか?
−−あまりそういう定義を見たことはありませんが、それでもよいでしょう。もちろん意味的側面に限っての話であることはいうまでもありません。「サンタ」と「サタン」は語形こそ「家族的類似」を見せますが、類義語ではありません。
>文房具のプロトタイプは絵に描けないというお話が面白かったです。知識の分業制という考え方を使えば、「丸い四角」は専門的知識からすれば存在しないけれど、日常的知識からすれば存在するなあと思って、少し納得しました。
−−その通りですね。
>外国語教育において多くの意味をもっている多義語を「プロトタイプ」で説明するというのは分かりましたが、同音異義語の場合はどうなるのでしょうか。同音異義語のプロトタイプは認められないのですか。また、多義語か、同音異義語かの判定はどういう形でできるのですか。これもプロトタイプを用いて説明できますか。
−−プロトタイプを意味上の概念とすれば、同音異義語は無関係です。英語なら銀行のbankと土手のbankが別の語であるように。また、多義語と同音異義語の区別は語源や意味的なつながりの強さを元に考えるのですが、実は区別のはっきりしないケースもあります。よく概説書に出てくる例では、耳を表すearと麦などの先の部分を表すearは語源的には別の語であることが確認されていますが、現代ではむしろ形の類似から多義語として感じられることがあるようです。
>現代的アプローチによる意味の記述の際、典型的な中心的メンバーを規定することによって、その記述は完成するのでしょうか?中心になるメンバーを規定する、その後、何かが足りないような気がするのですが
−−クラスでもとりあえずの説明はしたと思いますが、中心的メンバー+バリエーションの規定によって記述は完成します。
>決定的なプロトタイプは存在するのですか。それとも主観の域を越えないのですか。
−−1つ目の問いについては、「恒常的には存在しない」、または存在しなくても分析の意義はいささかも減らないと考えます。2つ目の問いについては、プロトタイプはそもそも主観的なものではありません。ノートを再確認して下さい。
>コウモリは鳥のカテゴリーに入れても良いですか。
−−もちろん、専門化された知識のもとでは入りませんが、日常的・民俗的知識のもとでは入ることもあるでしょう。アンケート調査などでも「鳥」の下位に登場することがあります。
>プロトタイプというものがいまひとつわからなくなってしまいました。理解していたつもりでしたが輪郭があいまいな分かなり都合のよい概念ではないかという気がしました。
−−気休めかも知れませんが、理解が深まるにつれて「ざっと分かっている」>「そのつもりが、混乱した」>「自分なりに納得した」というコースをとることがよくあるので、あとは自分なりにまとまりをつけて下さい。「都合のよい概念ではないか」という疑問については、その通りと思いますが、古典的なカテゴリー観もそうとうにご都合主義的なものだとは思いませんか?だとすれば、生きた人間の認知活動をとらえるための手段としてはプロトタイプ分析の方がリアルだというのが重要な点です。
>専門的知識の領域でも、カテゴリーはいつも問題です。ミドリムシは動物か植物か、といったような話です。
−−面白いですね。専門的知識の中では、境界例をどうすくい上げるかというよりも、まず定義を行うことが重視されるわけですね。昨今の脳死移植の問題も、「死」をどのようにカテゴリー化するかの問題と見ることができます。
>私はプロトタイプはどちらかというとイメージに近いものだと思います。目で見る形だけではなくて、例えば、「文房具」だと、どういう状況で使うかやだいたいの大きさとかがイメージとしてあるように思います。言葉が一定の社会の中で通じるにはそれぞれの単語や文のプロトタイプというのはあるでしょうから、おもしろそうです。「東大生」のプロトタイプなんて割とはっきりしているような気がします。
>...今回の授業では「大学生」あるいは「東大生」のプロトタイプの話がでました。これらは、制度的には「大学の通常は学部に所属しており、所定の課程を納めることのできる身分の者」のように定義づけることができるでしょう。しかし、日常的知識によれば、「多くの場合は20歳前後の若者」とうことになって、社会人学生は制度的(知識、専門的知識)には学生であっても日常的知識によればプロトタイプから外れたメンバーになる、ということになるのでしょうか。また、制度的には「学生は学ぶもの」かもしれませんが、日常的知識によれば、「学生は学ばないもの」というプロトタイプがあるかもしれません。
>プロトタイプは具体例としても抽象化したものとしても不十分だという話の後、バリエーションがどうこうといった先生の考えをおっしゃっていましたが、そこがよくわかりませんでした(バリエーションの関係)。
−−この点は他からも質問があって、私も後から考えると、複雑な問題を含んでいます。まず、プロトタイプの規定の仕方とは別に、わりあい具体的なイメージは多くのカテゴリーについて思いつくという事実があります。これは名詞によって表されるモノの世界について最もよく出てきます。ただ、こちらは(とりあえず「イメージ」と呼びます)個人差が大きく、漠然としたものなので、カテゴリー化における役割などははっきりしません。いずれにせよ、改めてクラスで具体的な分析をしつつ説明したいと思います。
>子供が言葉を覚えていく時に、”鳥”なら”鳥”とどのようにカテゴリー化していくのか、興味があります。
−−次回のクラスでとりあげますが、これはカテゴリー化の階層(レベル)という観点から分析可能です。ふつうは中間的で、適度に広く適度に具体的なレベル(例えば「ワンワン」=犬)から始まり、上と下に広がると言われています。いきなり「動物」とか「マルチーズ」とかのレベルは習得しないわけです。
>プロトタイプ理論では古典的カテゴリー理論を否定しているが、成分分析についてはどのように捉えているのですか。
−−Good questionです。成分分析をある語の定義のための必要十分条件と考えるならば、成分分析では適切な意味の分析ができないということになります。ただし、記述のための手段と考えるならば、ある語の意味的特徴を成分分析の形で示すことは今でも有効と思います。その場合、ある特徴はこういう条件下でははたらかない、という説明の仕方がとられることでしょう。
>プロトタイプの実在性の項で、具体的なものそのものに実在しないのはわかったんですが、抽象的なものそのものには実在しない例で「文房具の抽象化」とあったんですけど、そこのつながりが今いちわかりませんでした。あと、古典的アプローチでは見えない事柄という所で、僕の考えでは1か0かにあてはめる(定義化)ために共通のものである最低限のものしか扱えない(つまり限定される)という批判を考えていたために、先生の古典的アプローチ批判が理解できませんでした。
−−第一の点については、漠然とした抽象化ができないカテゴリーもあるということで、例えば人の姿については子供の落書きのようなイメージを「抽象化」として描くことはできるでしょう。ところが文房具(あるいは家具)について、どのメンバーもそこから具象化できるような一個の共通したイメージは抽出不可能ということです。第二の点も重要で、あなたの考える批判は正しい。私の説明も(たぶん)正しい。相互に矛盾するものではないと思うので、自分なりの解決を考えて下さい。
>先生が指摘していらしたのはプロトタイプは必ずしも具体的なもの、あるいは抽象的なものではないことですが、文法化の場合はどうでしょうか?例えば、動詞から他の文法的な要素に変化していく場合です。なぜ動詞はプロトタイプだと思うのかと聞かれたときに、私は、それは人間の動き、つまり具体的な現象を意味するから動詞の機能をcentral memberにしたと説明したのですが、この説明は間違いでしょうか?
−−文法化については少し後で説明しますが、歴史的なsourceが必ずしもプロトタイプではない、という点はおさえて下さい。その意味で、「動詞はプロトタイプだ」というのは適切な見方ではないと思います。ただし、品詞カテゴリーには実質的なものと文法機能を担う語とがあり、文法化の定義を考えあわせた場合「動詞の機能をcentral memberにした」のは正しい選択だと思います。内容語>機能語の変化の方が逆よりも一般的であるというのは事実ですから。
>ずばり「プロトタイプ効果」とは何ですか? プロトタイプカテゴリーがdown-to-earthであるという実感はあるのですが、プロトタイプ効果というのは、本能的にカテゴリー化を行った時に、自然とプロトタイプに相当するものを想定するという理解の仕方でいいのですか?
−−二つ目の質問はよくわかりませんが(たぶんそういうことではないと思います)、プロトタイプ効果というのは、いかなるカテゴリーについても、日常的・民俗的知識の領域ではメンバー間のステータスに不均衡が生じるという事実をさします。わざわざ「効果」というのは、プロトタイプの実在性やその規定の仕方に問題があるものの、上の事実そのものは否定できないという点から、そういう結果をさしたものです。
***その他
>先生は認知的アプローチは、生成文法と比べた場合、どちらが有効だと思われますか。長短/これからやるならこれだ!みたいなことをおしえて下さい。
−−あはは。営業上の理由からいえばもちろん認知的アプローチです。ただし、ひと昔前は(今でも他の多くの大学では)そういう質問をする学生に生成文法を誰もがすすめていたわけで、教育的配慮としては、どちらに転ぶにせよ「自分の美学をもとう」、でも「他者には寛容になろう」というところです。
>さらに言葉ごとのカテゴリーに加えて個人個人がおのおの持つカテゴリーまで考慮すると、人どうしがつながり合っていること自体が不思議に思えてしまう。わずかな「擦れ」や「かすり」がそのつながりの正体だとするとそれは驚きとしか言いようがない。
−−私も同意見です。ごく素朴に考えても、違う経験や視点の持ち主の言っていることが「分かる」ことは奇跡に思えます。よくコミュニケーションの不成立が問題として考察されますが、見方によっては成立すること自体がおかしなわけで、言語習得の不思議と比べてもひけをとらないくらい深い謎といえるでしょう。人は分かり合えるかもしれないという希望によって生きていく...んでしょうかね。
>現代的カテゴリー論が西洋的価値観にとって大きなショックだったという話でしたが、むしろこの見方こそが古代ギリシャの形而上学の根本にあったのではないでしょうか。つまり、それはイデア論のことです。アリストテレスらはプロトタイプを形相、具体的個物を質料と呼んで、前者が後者に様々なレベルで分け与えられていると考えていたと思うのですが。このようなイデアニズムは近代においてはどちらかといえば否定的な(近代科学は具体的事物からの帰納的思考を理念としてもっています)見方をされていたのですが、これが人間の日常的認知のシステムとして生き返ったのは興味深いことです。
−−うーん、古典的な哲学は二次的資料からしか知らない。思いつくことを述べるならば...まずプラトンとアリストテレスはけっこう違う。プラトンのイデア論だけについていえば、「Xのイデア」と「Xのプロトタイプ」は別物だと思います。イデアとは抽象観念で、具体的な事物はその(仮の)実現形だとします。そう考えると抽象的なカテゴリーとはやはり均質的なものなのではないでしょうか。「鳥のイデア」の実現形としてのさまざまな鳥の間でのバリエーション、特に典型的なものと非典型的なものとのステータスの違いなどは捉えきれないと思います。
>今日の講義は確かにヴィトゲンシュタインの思想にもつながることがわかりましたが、同様につながりがあるものとして、僕はユングを挙げたいと思います。東洋人である僕も東洋思想が得意なので「科学」に対してそっちの方面からアプローチしてみたいものです。
−−ふつうこういう話は「言語理論からは離れすぎ」として避けてしまうのですが、ユングの元型論(プロトタイプではなくてアーキタイプ)は私もけっこう好きだったのでとりあげました。とはいえ深層心理や人類に共通の集合的無意識(=知識以前の知識)は言語学者はさすがに論じることはありません。ただ、特殊なタイプの言語活動、例えば儀礼の言語などを理解しようと思えば、背景にある象徴の体系を理解する必要があるわけで、広い見方からは通じるところもあるでしょう。
***プロトタイプとカテゴリー化再び
>先週話題になった組織立ったバリエーションは記述approachの弁別素性とはどう違うんでしょうか?つまり、記述の弁別素性は全体的に組織になっていないという解釈は可能でしょうか?
−−ええっと、全く違います。これについては、「組織立ったバリエーション」についてきちんと説明していないので、今度ちゃんとやります。
>前回、「言語が経験的に定義されている」というようなことをやりましたが、そうであるならば、その言語自体の核となっている絶対的なものは存在しなくなってしまうのではないでしょうか?言語に限らず、いろいろなものが経験的に定義されているのではなくて、絶対的な何かがあると考えることが、哲学ではよくあるので、このような「言語についての科学」を考えるときには、そのような「哲学」の範囲の話とはあまり関係がないのかなと思いました。
−−クラスの最初の頃に「経験基盤主義」の話をしました。本当に揺るぎない100%の絶対的基盤の存在はわかりませんが、身体性や環境との相互作用は言語によって構成される概念の核になっています。例えば距離や方向の概念、五感の感覚と快・不快、身体経験と結びついた時間の概念などが考えられます。
>前回のツェルタル語の分類で、corn、beanには上位がないとなっていましたが、plantの分類に入っているのだから、tree、vineと同じレベルにあってもいい気がするのですが、そのことについて記述はないのでしょうか?
−−オリジナルの研究が手元にないのですが、「同じレベルにあってもいい」のにない、というところが民俗分類(folk taxonomy)の面白いところだと思います。そうした民族に「おまえたちは間違っている」と教え込んでも、慣習化された言語使用はそれ自体で一つの世界をなしているといるので、しようがないわけです。多少次元の違う話ですが、レストランでランチを頼んで、「パンと稲とどちらになさいますか」と言われたら、日本語で生活している人ならギョッとすると思う。
>この前の授業についての質問ですが、プロトタイプについての質問ですが、ある文法範疇にもプロトタイプがあると先生がおっしゃいました(例えば、動詞らしい動詞)。同じく、テンスとアスペクトにもプロトタイプがあると考えられますか?例えば、典型的なpast tenseは「過去」のことを描写しますが、形態的にpast tenseであるのに、「過去」のことを指さない例もあります(例「ああ、見つけた。ここにあったよ!!」)
−−はい、あります。これは2つのレベルから見ることができて、まず、ある言語で(または普遍的に)テンスとみなしうるカテゴリーをプロトタイプ的に見ることができます。日本語や英語の過去形はいちおう動詞の活用で表されますが、中国語などではそうでなく、「了」なども本当にテンスか?というとあやしいものです。もう一つ、ある形態について、その基本的な意味・用法とそうでないものを分け、プロトタイプとそこからの拡張という分析が可能です。質問にあるのは後者のケースと思います。いろいろな説も出されているようですが、日本語の「た」は面白い用法をもっています。ついでに言うと「バスが来た」などは目の前で起きていること、「さあ飲んだ飲んだ」はこれから起こることを表しています。
>basic levelから離れたり、プロトタイプから離れたりすると、ものと語の結びつきが弱くなり、「〜するもの」(よりカジュアルには「〜するやつ」)というような表現で表されるようになるのですね。例えば、「スパゲティトング」。昨日これを探し求めていたのですが、名前を知らず、「スパゲッティなどのパスタをとったり盛り分けたりする器具(もの)」と認識していました。これは、「調理器具」(でしょうか)というカテゴリーに入るのでしょうが、プロトタイプ的メンバーからは(日本の家庭においては)外れるということでしょう。最も、下位カテゴリーとしては「ステンレスのトング」が「一部がプラスティックでコートされているトング」などがあるのでしょうが。
−−なるほど、面白い話ですね。下位レベルの語が思いつかないときは基本レベルに言及しながら「...するためのもの」とか「...の一種」というわけですね。
***フレーム/スキーマとスクリプト
>言語活動を支えている知識が百科事典的な定義だけでなく、それに示唆される色々な事柄を含むということはわかりましたが、言語的な知識とは何かがわかりませんでした。単なる文法的知識なのでしょうか?
−−いや、まず「百科事典的な定義だけでなく」というのはちょっと思い違いで、これは「言語的な定義だけでなく」のはずで、「色々な事柄」を含めて百科事典的知識が成立するものという説明をしました。いずれにせよ、言語的知識を説明する必要はあるわけで、それは単純化すれば音韻と文法、および語彙的知識となります。ただ、語彙的な意味の領域にどこまで百科事典的知識が介入するかは明確な区分が引けないので、そこから問題が始まるわけです。
>高校時代、オーストラリアの友人に日本語を教えていましたが、教えるのに最も苦労したのがフレームの例であがったような「みかん」の意味でした。日本人はこれを反射的に理解できますが、習得しようとすると、極めて困難な問題のようです。このようなprofileはどうやって身に付くのでしょうか。nativeから習うものと(母語習得)、外国語として体系化されたものとして 習うものとでは、わかりやすさに差が出るものなのでしょうか。
−−やはり日頃の、誰がどんな目的で何と一緒に行動するか、という場面全体の知識が身についてはじめて理解できるということです。余談ながら、グレープフルーツを皮をむいて食べていたら「変わった色のオレンジだね」と言われた人がいます。典型的な場面=フレームの知識をもっているかどうかはその社会に生きているかどうかにかかっています。
>スキーマということばの使い方がわかりにくかったのですが、文章の中でどのように使ったらいいのでしょうか?
−−「XXの/というスキーマ」という言い方はよく見ます。
>スクリプト/シナリオはスキーマ/フレームの一部ですか?フレームの中で特に時間の流れとか一連のものとして捉える時にスクリプト/シナリオ(例がもう少しほしい)というのですか?
>フレームとスクリプトの違いがいまいちぴんとこないのですが、何か「これは!」という差はあるのでしょうか? 「かく」と「write」の例を挙げていらっしゃいましたが、これは今日の授業のどの辺と関わるのでしょうか?
−−一人の学者が両方の用語を分けて定義していることはあまりありません。フレームが一般的な概念で(時間の展開を含む必要はなく)、時系列に沿った具体性の高い一連の出来事をスクリプトといいます。また、「かく」と「write」の区別は日本語と英語で何を書くかについての違いで、そうした場面についての知識も含めた上でないと語の適切な使用ができないということです。
>スキーマ/フレームが言語表現に影響を及ぼしているのは納得できますが、様々なフレーム同士のつながり、関係や構造といったものはわかっているのでしょうか。それとも、それぞれの言語表現の際に参照されるバラバラな知識なのでしょうか?
−−バラバラではありません。十分に相互関係が分かっているとはいえませんが(下手をすると百科事典的知識全てを体系化することになります)、どのような方法で言語使用の場において参照されるかという手続き的な面の分析はプロトタイプ、カテゴリー化のレベル、知識のプロファイルという概念で分析可能だと思います。
>前回の講義について、バイリンガル、トリリンガルの人たちは、使用する言語を変える時カテゴリー化の仕方も(意識的、無意識的に)その言語特有の仕方に変えるのでしょうか? また外国語を学ぶとき、母国語のカテゴリー化の仕方が邪魔になってしまうことがあるのでしょうか?
−−どちらもイエスでしょうね。これまで例の多くは分かりやすいものということで語の意味をとりあげることが多かったのですが、発音、すなわちある言語における音素(有意味な差をもった音のタイプ)のカテゴリー化や、品詞と文型のカテゴリー化などは母国語の干渉の出やすいケースです。英語をやってきた人が、たとえそれほど上手でない場合でも、フランス語などを学習すると英語の干渉がやはり出るものです(フランス語のjの音などは明らかに英語と違います)。これはある意味で低次元の例ですが、バイリンガルに近い場合などはもっと興味深いケースがあることでしょう。
***プロファイル
>一つの言葉がprofileの仕方によって様々な意味をとりうる、ということは、面白く理解できました。言語習得にもかかわる重要な視点であると認識しました。 スクリプトについては、その内容は分かるのですが、それを「スクリプト」として設定することにどんな利点、意味があるのでしょうか?
−−二つ目のポイントについてはクラスで多少説明しました。初めて出る語であるにもかかわらず「既知」の語につく定冠詞が使われている例です。そればかりでなく、つながりのあるテクストの成立条件の一つでもあるし(人間の場合は暗黙の知識が問題なく参照されますが、機械による処理の場合はとかく問題が起きることが知られています)、文の構造にもかかわりをもちます。原因>結果を表すような構文では、スクリプト的な知識に合致しないと不自然になります。wipe the table cleanはよくても、wipe the table blueはおかしい、というように。
>スキーマにおけるbaseとprofileの関係は、ある言語の使い手の恣意的な選択によるものと理解してよろしいでしょうか?
−−「恣意的」という用語のとり方によりますが、話し手の意図にしたがった柔軟性がある、という意味ではイエス、無制限に何でもあり、という意味ではノーです。
>例のwheelchairでengineという属性が入っているのが不思議です。また、chainが特に強いつながりを持っているのは理解できますが、wheelとhospitalやengineの間のつながりの強さはかなり違うと思います。
−−事実として言うと、最近の車椅子はモーターつきのものがよくあります。坂道をハンディキャップなしに移動するには当然ではありますが。このへんはまさに知識の細やかさが個人差をもつという点のあらわれです。
>アメリカで買い物をした時、おつりの渡し方が日本と違って、驚いたのですが、おつりに関してのプロファイルの仕方が日本とアメリカで違ったのだろうと思いました。
−−まあこれは素朴な例ですが、プロファイルというよりは、何をどんな順序で行うかという習慣的な、いわば行動のスクリプトの違いという方が適切でしょう。
>wheelchairに関してchairwheelとならない規則があるのですか? 山狩りは場所をprofileしたものだと思いますが、紅葉狩りは何をprofileしたものでしょうか?きつね狩りと同じでしょうか?
−−どちらも面白いポイントです。一つ目については、あるはずです。N+Nの複合語でも決められた語順があり、英語の場合は<属性>+<本体>という修飾関係が考えられます(それだけではなさそうなのが面倒なのですけれど)。例えばchairmanなどは椅子=議長という属性をもった人で、chairwheelと言ったら...何でしょうねえ。それはそうと、紅葉狩りは何なんでしょう。ターゲットでもあり、場所でもあり、ですね。山狩りは犯人捜索だと完全に場所になりますが、ハイキングなどでは紅葉狩りと同じです。
>鷹狩り、きつね狩りで、何をprofileしたのかを示す語として鷹ときつねを上げられましたが、このとき「狩り」は用語でいうとどれに相当するのでしょうか?
−−特別なものは考えつきません。まあ、ある動作を表わすという程度でいいとは思います。語の意味(およびそれが関わる出来事)はフレーム/スキーマとしてとらえているので、強いていえば「狩り」のフレーム/スキーマの中からターゲットがプロファイルされたのが「きつね狩り」、手段がプロファイルされたのが「鷹狩り」と考えます。
>同音語の漢字の書き分けは日/漢語のフレームのprofileの差と見なしても良いでしょうか?例、「描く-書く」「飲む-呑む」
−−漢字圏に特有の現象ですね。こうしたことを話題にする学者は少ないので、用語として出来上がったものはありませんが、文字言語におけるプロファイルの差であることは確かです。
***類別詞について
>まとめて言えば、classifierがどのようにカテゴリー化の方法/表れとなっていますか。
−−一つは、中心的なメンバーとそうでないものが何系統かに分かれた「放射状カテゴリー」をなしているということ。もう少し詳しく言うと、クラスで紹介したような何通りかの拡張の方法が類別詞以外にもはたらいていて、それらの組み合わせによって、多義性すなわち一つの言語表現が幾通りかの意味をもつという意味内容のカテゴリー化が分析できるということです。
>類別詞「本」については、何よりも(特に外国人学習者にとっては)「1本の本」といえないのが不思議です。類別詞「本」は、bookとは全く関係がないのでしょうか?
−−現代中国語(北京語)ではbookが「書」で、それに対する類別詞が「本」なんですけどね(例:一本書)。大きい漢和辞典を調べてみると面白いでしょう。ちなみに中国語といっても時代や地方によってかなり異なりがあるそうです。
>蛇は細長いのに「一本」といわないのは、蛇の形に関する面に焦点を合わせているのではなく、爬虫類、動物、としての面に焦点を合わせているからなのではないでしょうか?
>...最後にヘビの例が出ていましたが、なぜヘビを1本、2本と呼ばないかというのは、ヘビは「生き物」というカテゴリーの方に強く属しているから1匹、2匹というように匹をつかうのだと思います。
−−基本的に生き物は「本」で数える対象にはならないようです。日本語では生物−無生物の間に明確な区分がひかれますが、中国語では違うところで線が引かれるという研究を見たことがあります。なお、蛇も死体になってひからびて漢方薬の材料にでもなれば、高麗ニンジンと同列になって「本」あつかいされるわけです。
>「本」と数えるもので気になったもの−歯、映画 助数詞自体も階層化されているのではないでしょうか。ペンは普通1本だが、1個でもなんとかなる。リンゴは1個で1本は明らかにおかしい。牛は普通一等だが、一匹でも何とかなる。バットは一匹で一頭はおかしい。しかし、リンゴ一匹、バッター一個はおかしい。(一番基本的な分類は生き物かどうか?)
−−映画については、「巻物」が細長いものから平たいものにイメージ・スキーマ変換されたものと一応説明できます。ただし、私見では「明確に始めと終わりをもったもの」という規定の方が説得的ではないかと思います。歯については、マグロと同じで円筒形からのイメージ・スキーマ変換でしょう。助数詞の階層化については、たしかにあると思います。日本語の場合一番未分化ものの一つが「個」で、そこから先の細分化において、何箇所かの重要な分岐点があるというわけです。その一つはおっしゃる通り生物−無生物です。
>「巻物」と「はじめとおわりがあるもの」から連想される場合、分かれて広がっていくものなのでしょうか、それとも途中で合流するものでしょうか。そうなると放射状ではなく、ごちゃごちゃの網の目になりそうです。 映画やCM、素振りはどうでしょうか。
−−もともとこうした分析がされた時は「放射状カテゴリー」という命名がされましたが、途中で合流して網の目になっても別に構わないと思います。知識構造がネットワーク状であるというのは既に説明したとおりです。映画については上述、CMについては映画等からの延長で、「巻物」としてのメディアからその内容へのシフトが起こったと考えます。素振りは...私は「回」だと思うんですが。それが言えるとすれば、「棒状のもの」がプロファイルされる行為ということでしょう。
>ホームランと三振について、バットにボールが接触が問題ではないか。ファウルも「本」で数えている。
−−そういえばそうですね。クラスでは「直線的な弾道」と言いましたが、ファウルの場合も同様で、ボールが当たって飛んでいくのが重要です。
>投手と打者のかけひきでは、ふつうはボールに注目が集まるのではないでしょうか?打者のスイングは、ボールに当てたときに最も注目を浴びるのであって、それが「ホームラン」「ヒット」「ゴロ」などという形として表されるのだと思います。 佐々木の立つ三振ショーではフォークがどのくらい落ちるか、ストレートがどのコースに入るかに焦点が集まるようです。したがって、三振は打者のものであるよりはむしろ投手のもの、つまり「本」より「個」で表されるものなのではないかと思うわけです。
−−なるほど。少なくとも投手サイドから見たらそうなるのは間違いないですね。ちなみにアウトになる場合はゴロなども「個」で数えます。では鋭いライナーでもアウトなら「本」と「個」のどちらだろうか?
>柔道の一本は「わざ」のプロトタイプが「投げ」であるとすれば「軌跡」としてとらえられないか。
−−それも可能でしょう。
>形態が変わっていったり、抽象化されていったりした時にどこまで同じ類別詞が使われるのか、例えば蛍光灯、<細長い>から<リング状>へ形状が変わっても使われる。だが電球型までくると1本とは言わない。先割れ状のもの(2叉)は微妙。
−−リング状のは本当にボーダーラインだと思います。プロトタイプとそこからのバリエーションという点から見れば、<円筒形>、<リング状>(円筒形からの直接的な変換)、<球状>等のバリエーションが、「本」という類別詞の許容度と結びついており、「予測可能なバリエーション」に意義を見出すというアプローチは納得いったのではないかと思います。
>セールスマンが今日は契約何本とれたという。この場合の「本」の説明は。
−−Good questionです。はっきりいってよく分かりません。拡大解釈をすれば何らかの説明ができるでしょうが、クラスであげたメカニズムから素直には出てきません。最も周辺的なケースで、他の、それ自体周辺的な何かからの拡張と考えるべきでしょう。
>拡張5の「はじめと終わりが明確であるもの」が面白かったです。船便や飛行機も「本」で数えるのは、軌跡からきているのでしょうね。
>私にとっては列車は「n本」と数えますし、大抵の場合はそのように聞いてきたと思うのですが、駅のアナウンスで「駆け込まず1台お待ち下さい」という表現が観察されます...「台」については「可動性のある機械」がプロトタイプ的メンバーという結論を出したような気がします。たしかにバスであれば容認できると思いますが、列車の場合はどうしても容認できません。そこで、「台」の方は具体的にみえる機械としての列車、バス、「本」の方はダイヤとして計画された列車、バスというように考えられるかと思うのですが...
−−興味深い指摘です。対象のどの側面に光を当てるかによって使う類別詞が異なるというケースの一つと考えられます。駅員から見ると、電車は「可動性のある機械」なんでしょうね。
>「こりゃー一本とられましたな」の一本はどのように動機づけられるのでしょうか。僕が思うに原義として剣道の直接的な意味での「一本」があり、それを転用したものだと思うのですが。
−−そうでしょうね。ここでいう「転用」とは次の授業でいうメタファーの問題なので、その時ふれることにします。
>「〜つ」(1つ、2つ、3つ...)というのも助数詞なのでしょうか?これの使用にも何らかのイメージスキーマが関わっているのだと思いますが、「0つ」とか「10つ」とかいえない(と私は思います)のはどうしてなのでしょうか?
−−いちおう助数詞(=類別詞)に数えてもいいとは思います。日本語の類別詞はほとんどが中国語からの外来語ですが、「つ」はネイティブのものといえるでしょう。あと、人を数える「たり」>「一(ひと)」+「たり」=「ひとり」が思いつきます。数詞の構造は意外に面白いのですが、ネイティブとしてもっている数は少ない文化がよくあり、類別詞が必要とされるのも少な目の数に限られています。タンスの「竿」とか刀の「振り」などは類別詞という語法が確立されてから導入されたものでしょう。ちなみに、数が大きくなりすぎるとまとまりとしてとらえられるため、「1万人収容」とも言うし「1万収容」とも言えます。
***その他
>hit his headというのとhit him on the headのちがいが説明を聞いてもよく分かりませんでした。
−−今回の話(類別詞)とは別ネタで、前回までのプロファイルの概念を説明するためのものでした。ちがいは、前者がぶった場所を表現するもの、後者は彼をぶったということが中心で、頭は重要度が「格下げ」されます。ふつう、プロファイルは広い領域から絞られるものですが、後者の例では逆に向かっており、スコープが大きくなったやや例外的なケースといえます。
>base/profileがfigure/groundと類似しているとは言いますが、その相違点は何でしょうか。説明するとすれば、F/Gは心理学用語である等。
−−あまり考えたことはないのですが、前者がラネカーという言語学者の用語で、かなり厳密に、しかも限られた人たちに使われているのに対し、後者はだいぶ以前からの用語なので時として拡大解釈を受けつつより多くの人に使われているという違いはまずあります。それと、base/profileは文の構造を考えるときなど、何通りかのものが重なって分析されますが(したがって一文に何重ものprofile関係がありうる)、figure/groundはより単純な二分法と考えます。また、profileというのは対象/存在について(つまり名詞的なものについて)だけでなく、ある知識構造の特定の側面についてもいえるという点では、より文法構造の分析に適したものといえます。たとえば品詞などは概念の時間的推移をprofileすると動詞になり、モノ的な、境界をもった対象としての側面をprofileすると名詞になります。
>「動機づけ」ということばをもう少し詳しく教えて下さい。
−−ある形態・用法が(広義の)概念的要因から説明可能であることをいいます。例えば理由を空間表現である「から」で表すのは、理由を出来事の出発点と解釈しているからだ、という概念的な説明ができます。この時、「から」が(語ではなく)文について理由を表す用法は「動機づけられている」と言います。同様に、ある類別詞の用法も、基本的用法からの拡張が一般性のある概念的要因から説明できるならば、それは動機づけをもっているわけです。
***メタファーとメトニミーについて
>メタファーとメトニミーの両者を含む場合がある。これは何と呼ばれているのでしょうか?例、「あのやかん(禿頭)がうるさいから」この場合、やかんは類似性と部分と全体との両者に関わると思われる。メタファーというべきか、メトニミーというべきか。または、別の呼称があるのでしょうか?
−−特に広く使われた用語はないでしょう。意味の拡張は常に一通りしか認めない、というわけではないので、正直にメタファーとメトニミーの両者を含むと分析すればいいと思います。
>うまく例が出ませんが、メタファーとメトニミーの区別がつきにくい場合があると思うのですけれど、そういう時にはどう考えたら良いのでしょうか?
−−たしかにそういうケースはあるでしょう。「危険がおそう」と言えば人でないものが擬人化されているのでメタファーといえますが、その危険が動きのないものではなく、猛獣だったりすれば生物−特徴/行動というメトニミーとも分析できます。ここで注意しておいてよいのは、どちらかに決めねばならないというわけではないということです。人間の判断というのは何通りかの動機づけが同時にある場合が珍しくないです(今日着ている服を選んだ理由を一つに決め、他は積極的に排除することが不自然であるように)。ただし、こうしたケースは例外的ではあります。
***メタファーの性質について
>メタファーやメトニミーについては今までに何回か聞いたことがあって、漠然と理解していましたが、やや混乱気味でしたので、今回の説明ではっきりさせることができました。
−−それはよかったです。
>日常言語のメタファーは五感に関係するものが多いように思いました。それは、五感が、概念把握において最も分かりやすいよりどころだからでしょうか?
−−その通りだと思います。このクラスの初めの頃に「経験基盤主義」というラベルを紹介しましたが、その一つの側面が日常言語のメタファーであるといえます。
>文字どおりの意味とメタファー(詩的メタファー、日常言語のメタファーなど)を区分する必要がないという考えはわかりましたが、そうすると、概念に与えられたメタファーの役割がすでに認められている以上、メタファーの研究は表現研究にとどまるしかないのでしょうか?
−−いや、むしろ私の考えではその逆で、「概念に与えられたメタファーの役割がすでに認められている以上」、メタファーの研究は表現を出発点としながら概念の研究に必ず進むものだと思います。
>メタファーにおいてsourseとtargetは固定されているのでしょうか?「夕陽が目を射抜く」の例において、授業ではsource:射抜く、target :夕陽、としていましたが、「夕陽」によって「射抜く」のイメージが決定される場合もあると思います。2つのフレーム間のsource、target関係が相互に入れ換わることで意味が確定していくのではないでしょうか。
−−固定はされていません。ソースとターゲットの抽象度にあまり差がないときは両方向にメタファーが成立します。例えば「人間は機械である」と「機械は人間である」。しかしここでは、注目される性質はことなっています(前者ならば「人間」の概念は休まず働くという側面、後者ならば動きを予測不可能な時に止める、手足がある、等の情報が前面にでます)。ソースとなるかターゲットになるかによって、とられるフレーム(またはその一部)が違うのです。それはともかく、「夕陽」によって「射抜く」のイメージが決定される場合、というのは思いつきませんでした。
>metaphorについてはよくわかったが、simileに関しての扱いはどうなのか?「人生は旅のごときかな」ということわざは、言語学的にどういう扱いを受けるのか?
−−クラスの説明ではしませんでしたが、メタファーは概念レベルで成立するものだという考えからすると、simile=直喩とmetaphor=隠喩の違いは表現上のものだけで、概念上の操作としては同じだというのが認知的なメタファー論です。ただ、限られたケースでは概念的にも差が出ますので、この辺の精密化は今後の課題でしょう(例:一歳違いの兄が偉そうな口の聞き方をした場合、「兄貴みたいじゃん」というのは、メタファーとしてとるとおかしい)。
>be going to〜のようなメタファーは使用頻度の高さからメタファーに感じられなくなっているのでしょうか?
−−そうだと思います。使用頻度の高いものでも「目が釘付け」のようにメタファーらしさが残っているものもありますが、文法的情報(時制など)を表わすものは抽象化が進んでいる分だけメタファーらしさがなくなっているといえるでしょう。日本語では状態を表す「−ている」などがそうした例です。
>例えば、Vしてみるという表現についていえば、表記上の区別はありませんが、意味的にはV+見るといういわばliteralな意味と、見るが補助動詞的なものがあると思います。実際、音声的には「の'んで`みる'」「の'んでみ'る」のように切れ目を表す区別があり、literal vs, metaphoricalの意味区別があるように思われますが、ここでは、理解が違うということでしょうか?
−−それでいいと思います。文字どおり−メタファーの区別がいかなる場合においても識別不可能だという主張はしていません。要は識別の難しいケースが少なからず見られるということです。これだけでも、文字どおりの意味>逸脱性の判定>推論によるメタファー的意味の把握、という流れ作業しか認めない理論にとってはじゅうぶんに斬新な主張だと思います。
>targetにsourceがかぶさってtargetとなる概念が拡張されるという話でしたが、sourceがどの程度複雑ならよいのでしょうか。life
is a journeyの例ではjourneyはlifeより単純ですが、moveよりは複雑です。sourceはtarget
よりも複雑にならないものですか?
とても複雑で概念化しづらいもの(target)にsourceの概念化がある程度しやすい概念がかぶさるということですよね?例えば、「山登りは人生だ」とか「旅は人生だ」ということがあると思いますが、この場合はどうなのでしょうか?
−−Good questionですね。後半のポイントからいうと、「人生」の概念は慣習性は満たされていても、sourceとなるには具体性が乏しいため「山登りは人生だ」とか「旅は人生だ」はメタファーとしては成立しにくいといえます。隣の座席になった人を「夫/妻」としてメタファー的に理解することはないでしょう。前半のポイントは、sourceはtargetよりも複雑であるというのがわりあい多くのケースだとまでは言えます。次回取り上げますが、主に実質的概念についての慣習的メタファーがこれにあたります。ただし、実質的内容の乏しい場合でも、基本的なイメージ・スキーマがsourceになった時にはメタファーが成立します。
>メタファーと図式化とはどう関係するのでしょうか?概念(の集まり)を投影した図や表は非常にスリムなメタファーだともいえると思います。
−−なるほど。メタファーにも何通りかがあって、実質的な内容をもった概念のmapping(旅とか)とは別に、「非常にスリムな」イメージ・スキーマのようなメタファーもあります。例えばきわめて抽象的な図式として「閉じた領域」、「接触−非接触」、「経路と到達点」のようなイメージ・スキーマが考えられます。これらはコンピュータ風にいえばデータそのものというよりはデータ構造のようなもので、空間表現から時間表現、あるいは出来事全体(含む論理関係)へのmappingに関わります。日本語の「〜まで」のような語は空間的な「到達点」から時間、さらには主観的な予測(「あの人まで来るなんて」)も表します。これらは概念内容そのものというよりは、とらえ方、または概念の形を規定するものといえます。
***より広い問題
>国語学と認知的アプローチの関係を簡単に教えて下さい。(本郷の先生が、今の認知的アプローチとなぜか国語学の伝統がマッチすると言ってらしたので。)
−−まあ、簡単にはいきません(笑)。認知的アプローチは分派があるといってもそこそこの公約数があります(このクラスで解説しているのはそれです)。一方、国語学については仲裁の困難な分派があるわけで、どこに目を向けるかで違ってきます。『言語』の先日の号はちょうどよい参考になると思います。欧米(特にアメリカ)の言語学は一時期「意味」や「概念」といった問題を排除するアンチ・メンタリズムの傾向が強く、認知的アプローチはそれに対してメンタリズム的であるといえます。国語学の場合はそうした「暗黒の時代」がなかったため、認知的アプローチと手を結びやすいといえるでしょう。あと、これとの関連で例えば「主語」のような文法的概念の規定も形式的な句構造ではなく、心理的かつプロトタイプ的な規定によるという点で共通すると思います。
>「空間は具体的である」という発想に感心しました。方向性や位置関係というものがなるほど見事に含まれていますね。今日の授業では、いかにしてヒトが抽象概念を言葉に組み込んでいったかがぼんやりと感じられました。それに加え、文法のメタファー性から理解や認識のメタファー性をも考えさせられました。 小学4年生は急に授業内容が抽象的になるため苦しむそうです。その問題をいかにして解決するか、あるいは、4次元という得体の知れないものをどう把握するかなど。...と少々こじつけるように教育を考える素材として応用してみました。 量子化学や相対論では頻繁に登場して理系の生徒を苦しめます。空間で時間や感情の理解が助けられるが、この4次元という空間概念はどう理解しろというのか?
−−面白い話題ですね。見方によっては数学や論理学の概念もメタファーにすぎないともいえます。また、子供の概念習得ではメタファーという言い方はされませんが、ピアジェのように身体経験(感覚運動期でしたっけ?)と自分の手による操作を経て抽象概念が得られるという研究もあります。学習や心理の方面で「モデル」というのはメタファーとあい通じる用語です。
***Overについて
>TVゲームなどで、ミスすると"game over"になりますが、ここで言う"over"はどのように考えればよいのでしょうか?講義で出てきた"over"の用法のどれにもあてはまらない気がするのですが。
−−この間のプリントの最後(27)がそれにあたると思います。空間から時間へのメタファーが関わっていると思います(あるランドマークを「越えて進む」というイメージスキーマから)。
>'overthrow'について、「転覆」と「上手から投げる」という意味が考えられる。この場合、TRとLMとの関係図式も異なると思う。これは多義語でしょうか?同音異義語でしょうか?
−−多義語だと思います。もっとも、この語は辞書を見る限りでは「上手から投げる」という野球のピッチャーの語義はありません(野球用語としては悪送球だそうです)。だとすると、本来のLMを越えて(上の方に?)動くという程度に粗く考えれば共通性は見えてきます。
>"Do it over"という例がありました。これについては、「仕事は積み重ね」というようなスキーマがあって、もう一度行うときには、すでに仕事を行った上に重ねて行うということになるからではないか。というイメージを持っているのですが、いかがなものでしょうか?
−−じゅうぶん説得的だと思います。「仕事は積み重ね」というのは概念間の結び付けの作業ですからメタファーと呼んだ方がいいですが。
>The fence fell overは地面がLMではないのですか? Roll the log overやThe fence fell overは転がる、倒れるという移動の様子からoverが使われているのではないでしょうか?Sam walked over the hillは弧を描くように動いています。over1つでも色々なスキーマ変換や、メタファーの関与がありこんなに派生することに改めて驚きました。
−−例の分析としては、クラスで話したことよりもこの方が説得力がありますね。確かに、overの用法の中から、「弧を描く」というイメージを引き出すのは納得がいきます。The fence fell overについては、地面をLMと考えることもできそうですが、The plane flew over the hillのように、The fence fell over the groundとは言えないので、「何かが違う」ということは分かると思います(The fence fell over TO the groundならOK)。この「何か」をブルグマンやレイコフはLMの取り方の違いと見ているわけです。
***メタファーについて
>メタファーについて理解が少しは深まったと思います。(以前は何の知識もなかったのに)レポートを書いていて、文法についての話に興味を持ったので、今後の講義も楽しみにしています。
−−That's good!
>前回のメタファーの分類のところで、「慣習的メタファー」「汎用メタファー」「イメージスキーマのメタファー」の3つの違いがよくわかりませんでした。特に、「イメージスキーマのメタファー」という分類を別にこしらえる必要性があるのかどうかという点について。
−−カテゴリー化のレベルでいうと、「慣習的メタファー」は基本レベルまたはその一つ上くらいの実質的内容をもった概念について成立します。「人間」、「植物」、「乗り物」、「武器」など。「汎用メタファー」は抽象度の高い概念、例えば「出来事」、「属性」、「物体」といったものです(「出来事は物体である」など)。「イメージスキーマのメタファー」はおっしゃるとおり、単独でとりあげるべきものではないかもしれません。なぜなら慣習的メタファーもイメージスキーマを「骨格」として内にもっているわけですから。これについては単独のメタファーというよりは、分析の一レベルと見る方が適切でしょう。
>民族的モデルの話で、アイヌ語の地理的名称、地名(固有)について思い出しました。金田一によれば、「山」「川」「海岸」などのまとまりをなす地形の各部名称はすべからく人体名称によるようです。「アイヌ語正典」では不毛な批判がなされていましたが。
−−興味深い話をありがとうございました。
>類推について少し触れられましたが、メタファーの研究によって人間の類推のしかたの一般的なパターンがわかったてきたというようなことはありませんか?
−−たしかに言えると思います。これという「一般的なパターン」は思いつきませんが、「かたち」の保存(イメージスキーマと言ってもよい)は一つの制約としてありそうです。例えば参加者の数(a:b=c:Xなら簡単でも、a:b=c:d:Xは変)、行為の性質(目的がある/ない、等)とかは関わりがあるように思います。
***品詞について
>名詞が時制を持つ言語というのはやはりありえないのでしょうか?
−−実は、あります(逆に言うと時制を持った動詞なのに名詞的に使われるケース)。もちろんこれは定義の問題になるわけで、古典的なカテゴリー観にもとづいた定義をとると破綻するわけですが。この次の時間に少し例を出せればと思います。
>品詞との関連で気になったのは、日本語で存在について反意語(そうよんでいいのか分かりませんが)となっているpairが「ある」と「ない」という動詞-形容詞となっているのはどのような背景によるのでしょうか?純粋にとある意味的なfeatureが+-で違うだけではない、といことなのでしょうか?
−−何通りかの説明が可能です。その一、別に必然性はなく、恣意的な現象である。その二、何か動機づけはあるはずだが、現時点では分からない(The glass brokeのように、punctualな出来事でも、否定にしてThe glass didn't breakとすると状態になるというのはありますが、ここでは「ある」も状態なので単純な比較は成り立ちません)。その三、歴史的に見る。古語で「ない」はどう使われていたか、本当に形容詞か、「ある」とペアをなすような頻度・コンテクストか、等。調べないと分かりませんが、私なら三つめのアプローチから始めます。専門家がちゃんといるし。
***その他・一般論
>ネットワーク的分析のねらいは現在使える用法を網羅的に説明することだと思うのですが、これはその言葉の歴史的な変遷のあとを示すのでしょうか?それとも、その話者の認識の広がりを示すものなのでしょうか?
−−たいへん興味深い質問です。理想としては、どちらについても「イエス」となって、かつ両者が重なり合うというのがいいわけです。その場合には認知的アプローチの有効性が最良の形で示されることになります。ただし、歴史的データが十分にない言語の方が世の中には多く、認識の広がりについてはそれ単独で妥当性をはかる基準が弱い(ないわけではない)ので、それを補うべく言語の比較を行う、習得の順序を調べる、意味カテゴリーの抽象度を基準にする、といった方法がとられるわけです。
>だいぶ前の話になりますが、ツェルタル語のカテゴリー化の話がありましたが、その調査において何と何が同じレベルのカテゴリーであるかを決める(例えば、pine, willow, corn, beanにあたる語のレベルは同じだと決める)ときの根拠は何なのでしょうか?
−−当事者に聞いたわけではありませんが、想像するに、アンケート的なものを(ただし文書ではなく口頭で)やったのでしょう。いわゆる「民俗調査票」というやつです。例えば「XはYの一種です」、「XとYを買いました」等。日本語なら「大豆は野菜の一種です」(変だという人も多いはず−−「大豆は豆だってば」と言う)、「ニンジンと野菜を買いました」(これも変だという人が多いはず)、等。
***品詞カテゴリーについて
>今日の授業が身近なケーススタディーとは違って少し分かりにくかったです。いろいろな言語について知れば知る程、今日のような話しは面白くなると思いました。
−−説明不足はありましたが、多くの言語のデータを参照する必要がわかったのは良いことです。実際に多くの言語を「知る」ことは困難でも、仮説の反証可能性を高めることは出来るはずですから(専門家がその程度ではいけないんですけどね、トホホ)。
>「〜まま」は単独では主語になれないが、「そのままが良い」などとは使えるので微妙かと思う。
−−そうですね。名詞の典型的な談話機能が事物の指示にあるとするならば、具体的な名詞である「先生」や「駅」などは特定の指示対象を限定されたコンテクストの中では示しうるのに対し(「駅から歩いて何分?」)、「まま」などはそうしたはたらきをもてません。そこで「その」といった指示語によって支えてやってはじめて指示機能をもてるのだといえるでしょう。
>「そぼ降る」の「そぼ」は「そぼろごはん」ですか?何かパラパラという感じでしょうか。
>「そぼ降る」について、「そぼ」が動詞だとしても、「そぼ降る」で一個のことばとみなすことはできないか。理由としては「そぼ」には生産性がなく、一般化できない。つまり、語彙化とみなしてはどうであろうか。
−−現代日本語話者の感覚としてはその通りだと思います。もちろん、言語学的には「意味を担う最小の単位」として形態素を設定するので、「そぼ」は自立性のない形態素(品詞は定かでない)、「そぼ降る」は一種の複合語とみなされます。「そぼろ」や「濡れそぼる」に出る「そぼ」と実は同じ語だとしても、別の項目として話し手は思うでしょう。余談ながら、英語のlordとladyのl-/la-部分は共通語源で古期英語のhlaf-(=現代語のloaf)にあたるのですが、そんなことは今は誰も気にしない。
>Hopper & Thompsonでは(又他の研究においても)動詞の典型としてactiveなことが考えられています。そうするメリットはあると私も考えますが、その説明は類型論的に説明されているのでしょうか。
−−Langacker的な認知文法では「時間的推移・過程」をプロファイルしたのが動詞とされます。その意味で、能動的行為の方が事態に変化をもたらすものと見られるわけです。類型論的には、Croftのいう有標性の考えに従えば、時間的推移を表わさない語が動詞的に使われる場合、逆にもともと状態的な概念に時間的推移という捉え方を「かぶせて」表わす場合には有標の形態をとることになります。英語などの例はすぐに浮かぶと思います。類型論的、などと言うからにはなじみのない言語から例を出さねばならないのですが、今回はご容赦下さい。まとまった文章を書くときは取り入れたいと思います(文献としてはWilliam Croft, Syntactic Categories and Grammatical Relations, 1991, Chicago参照)。
>英語では、語彙の拡張が動詞(destroy)−>名詞(destruction)という方向でおこることが多いのに対して、日本語では名詞(破壊)−>動詞(破壊する)が多い。これはもちろん、漢語から入ってきた言葉を日本語として活用させる(=動詞として使う)ためでしょうが、このように優越する品詞の違いが思考にどのような影響があるのか、興味があります。
−−ちょっと複雑な問題です。まず事実としてそのような傾向があるか確かめることから始めた方がいいでしょう。英語の一つの特徴として、名詞をゼロ派生で(派生語尾をつけずに)動詞化することがあります。例:hammer, nailのような道具、step, handのような動作、authorのような生み出す行為、等。分析対象をある程度コントロールしてから始めないと何ともいえないかな。
>どんな言語でも、別の言語からの翻訳は訳文のスタイルを気にしなければ可能である、ということをよく読みますが、形容詞というカテゴリーが小さい場合、他の言語で表された全ての文を表現しうるのでしょうか。
−−例を考えましょう。日本語はそれほど形容詞の少ない言語ではありませんが、英語よりは少なそうです。そこで対応する形容詞がないときは「〜的」や「〜の」といった表現を使うわけです。同じことは多分他の言語でもいえて、二つの概念を結びつけるような汎用性の高い接続語(「の」のような)が使われる、という予測ができます。このような場合、形容詞という独立した品詞カテゴリーは小さくても、「修飾」という機能ははたされるわけです。これにはちょっと余談があって、形容詞も語彙化される概念は言語ごとにかなり異なり、日本語の方が英語よりクラスが小さそうだと言いましたが、「懐かしい」などは意外にも英語でピタリと対応する語がありません。修飾的に使うときはdearやoldなどを適当に組み合わせるのでしょうが、述語的に使うときは、お手上げです。古い曲がかかっていて、「あ、それ懐かしい」などというのをどう英訳するか、ちょっと考えて/調べてみて下さい。
>英語では、限定用法/叙述用法という分類を行っていますが、前者が指示の限定を加えるなど名詞に近く、後者はある名詞についての記述ということで動詞に近い、というように考えることが出来るでしょうか。また、どちらかの用法でしか使えないという形容詞がありますがそれらのものはより動詞らしいもの/より名詞らしいもの、と捉えればよいでしょうか。(例えばpred.しか使わないworthならば動詞的である、とか)
−−大体そうですね。ただし、「名詞に近い」等はより正確には「名詞の典型的な談話機能を示している」というようにお考え下さい。
>「黄色な」と言えるかどうかという問いがあったが、「〜色な」という表現を考えてみると、色によってずいぶん違和感の程度が異なるように思う。個人差もあるかも知れないとも思った。
−−その通りだと思います。
>名詞と動詞の中間が形容詞であるという説になるほどと思いました。
>形容詞が名詞的と動詞的(「名詞」、「動詞」に非ず)の中間である、というのに対して。中間というのもある程度の偏りで名詞的、あるいは動詞的におさまっちゃうと思ったんですが、その瞬間の具体例が分かりません。教えて下さい。
−−マ、「中間」というのはちょっと説明不足で、両方の機能を持ちうる、というのが正確です。「偏り」ということについていえば、ある概念がプロファイルされるのは談話コンテクストの中においてであると考えると、談話のテーマやジャンルといった特徴によって形容詞の分布が異なってきます。ある研究では、会議のような形式張った談話で多くの対象に言及するケースは修飾的用法が多く(=指示対象を特定するために特徴づける)、親しい間柄の限られたテーマの談話では叙述的用法が多い(=あらかじめ特定された対象に評価を加える)ことが報告されています。この他、より「瞬間の具体例」らしいものを求めるとすれば、形容動詞はお考えになっている例といえるでしょうか?「アホ」という概念が名詞的・指示的に使われるときは「このアホが悪いんだ」、動詞的・叙述的に使われるときは「おまえはアホだ」、修飾的に使うときは2通り可能で、「アホな男」、「アホの本」。これに「あの」をつけると、「あのアホな男」、「あのアホの本」となり、前者は「あの」は「男」にのみかかりますが、後者は「アホ」、「本」両方可能と思います。つまり一見どちらも修飾的でも、前者は動詞的な叙述からの修飾(属性)、後者は名詞的な指示対象からの修飾(所有)となるわけです。というわけで「アホな学校」、「アホの学校」の可能な解釈をそれぞれ考えてみて下さい。
>多くの言語には名詞、動詞、形容詞がありますが、タイ語の中では二つの議論が分かれています。一つは形容詞というカテゴリを認めること。もう一つは形容詞としてではなく、状態動詞であって、タイ語には名詞と動詞があるというふうに大きく分けて主張する人もいます。私は後者の考え方が説得する能力があると思います。つまり、the so-called状態動詞は動詞らしさの特徴を持っているためです。でも、今日の授業を聞いて、また別のparameterを使って、テストしてみたいと思います。
−−これも、形式的基準、意味的基準のどちらを用いて品詞を規定するかの問題です。形式(活用や文中での統語的位置)を考えると状態動詞とする方がよく、意味を考えると形容詞を独立させた方がよいということになるのでしょう。「形式と意味の一体化」と安易に言うことはできず、やはりプロトタイプ的に考えることが必要と思います。同時に「品詞」という固定した枠を取り払ってある概念がどうプロファイルされるか、という観点から分析すると面白いでしょう。
***文法関係について
>文法関係についても思ったのですが、何にでも「普遍」を求める気持ちもわかるのですが、必ずしもすべてがその「普遍」になると考えるのは間違いでしょう。
−−そうだと思います。例外なき規則としての普遍性と、条件付きの傾向としての普遍性と考えれば後者の方が役に立つと思います。たしかに絶対の普遍性もあるでしょうが、それは結局「つまらない」ものなのではないか思います。
>英語はだいぶん主語に重きが置かれているとありましたが、いろいろな言語の比較をすると、英語やフランス語やドイツ語はとても似ているけれど、日本語はなぜこんなにも違うのだろうと疑問がわきました。
>英語が主語を重視する言語であるというのはなんとなく納得できますよね。自我の強さというか、そうすると、主語がすべて自然や神であるような言語もあるのでしょうか?言語がその使用者の思考用式の反映であると見ると興味深いです。
−−まあ、全ての事象を非人称的に表す言語はきわめて異例だとは思います。それに近いものがあっても卒倒したりはしないと思いますけど。主語になれるものの資格が言語ごとに異なるのは確かなので、それを基準に類型的なスケールを考えることはできます。
>対格言語と能格言語についての説明は、おおざっぱには分かったと思います。それぞれの特徴についてより詳しく知りたいのですが、参考文献としてはどのようなものがありますか?
−−たくさんあります。日本語で書かれたものもいくらかありますが、論集や講座ものの一部だったりするので、すぐには文献が思いつきません。1冊の本としては角田太作『日本語と世界の言語』(くろしお)の中に概観的な記述があるはずです。同じく言語類型論の概説としてB.コムリー『言語普遍性と言語類型論』(ひつじ)があります。こちらの方が少し高度。あと、大修館の英語学大系に『英語学の関連分野』という巻があり、この中で柴谷方良氏が言語類型論のパートを書いています。これもわりと高度。これらはどれも80年代末から90年代初に書かれたものなので、文献表を見ればその時までの研究もわかると思います。日本語の解説的なものも記載があるでしょう。
>grammatical relationのEnglishの5)のCで[= O speak to B]と言っていますが、Oscar
went to the store and was spoken to by BillだとB speak to Oの意味になりませんか?B
speak to O の受け身形だと思うのですが。
>今日の講義で、プリントで説明されたgrammatical relationsのEnglishの1)〜4)までの説明がいまいちわかりませんでした(特に、b)*とc)のつながり)。もう一回説明して下さい。僕は、たとえば、to不定詞の主語(的なもの)になるのはb)で目的格を持ってくることがだめなことを、主格がコントロールしている、すなわち、主格が主語で、コントローラーは主格だと理解しているのですが。あと、コントローラーとターゲットは対応関係にあるのですか?
−−これは説明も不十分で、何かとややこしいので、別にプリントでも作ります。
***自動詞の二分化について
>他の授業で「日本語の2つの自動詞を分析する」というような課題が出ました。今日の授業では日本語は対格型ということでしたが、日本語の自動詞の文の主語でも、能格的なものがある気がしますが。
−−用語の問題として、対格型−能格型というのは、元々は格表示のパタンとして二分法的に考えられていたのですが、他動詞の被動作者(目的語的なもの)と自動詞の主語が共通のふるまいを示すということは他の側面でも見られます。ただし、よく見ると自動詞自体にも異なるふるまいを示す二つのサブタイプがあることが分かっており、jumpのように主語になるものが能動的でagentivityをもつ場合とstumbleのようにもたない場合があります。この場合、stumbleの主語になるものは意味的には被動作者と近くなります(影響を受け、コントロールをもたない)。これを自動詞の二分化(split intransitivity)といいます。他の学者は非対格性(unaccusativity)ということもあります。Stumbleのようなタイプは非対格動詞(unaccusative verb)と呼ばれるのですが、困ったことにこれを「能格動詞(ergative verb)」と呼ぶ人々がいます。これは破棄すべきだと思います。用語としては、日本で三上章という人がjumpのようなタイプについて「能動詞」、fallのようなものについて「所動詞」という見事なものを、訳語としてでなく自分の研究の中から考案しているので、これに従うべきだと思います。
***構文について
>「みだりに〜」の例のように、用法に関して、〜否(令)呼応をとるということをルールと見るより、知識のスキーマの中のプロトタイプ(というのは、個人差もあるのが自然に思えますし)と見るというのが正しいのでしょうか?構文を意味の単位と見るならば、用法のばらつきも一種の多義性と捉えるべきですよね。(この考え方超感動しました)
−−それでもたぶん大丈夫だと思います。まあ、それほどばらつきの大きなプロトタイプではないと思いますけど。用法のばらつきについては、結局、言語変化がそうやって起きるというところにもつなげて考えられます。
>「みだりに持ち込むな」(否定・命令)は確かに一番自然に使いやすい「みだりに」を含んだ構文だと思います。しかし、「みだりに人に言ってまわるのはひかえたい」「図書館でみだりに大声でしゃべるのはどうかと思う」などを考察するに、「みだりに」ということば自体、否定的な意味合いを持っているので、意味としては「自由に好きなように」だが「どうぞ、みだりにお茶を入れてのんで下さい」はおかしくなる。「みだりに」はそれ自体否定的でのぞましくないニュアンスを持っているので、普通そういうことはやめてほしい、禁止したいという自然な流れとなり「みだりに〜なことはやめろ」が例としてたくさん見つけられるということではないでしょうか?
−−テクニカルには、「対極表現」(polarity expression)というのがあって、否定形をとらない場合でもそれに準ずる文型をひとまとめにすることがあります。この場合、そうした見方ができるでしょう。英語でも、例えばsomeよりもanyがふつうに使われるのは否定文だけでなく、疑問文、条件文、といった文型があります。
>中心<-->周辺に関して、むしろ周辺的、例外的なものの方が優先的に参照されている(対応可能な「中心的要素」があってもキャンセルされる)ように思うのですが。
−−質問の意味がよく分かりませんが、日常の話者が、という意味なら??です。分析する立場の者が、というのならイエスです。というのも、ボーダー的な場合にもっともよく意味や用法の異なり等が見えてくるので。
>言語習得の方法論の歴史の中でpattern practiceがもてはやされた時代があったと聞きました。この方法は、あまりにも意味を考慮することなく、無機質に行われていたために次第に批判されていった、ということだったと思いますが、実際のところ、「文法は構文的スキーマの集合」という文法観からすれば、有効なのではないかと思いました。経験的にも運用面で有効と感じていましたが、理論的backgroundを得た(というとおおげさですが)という気もします。
−−そうだと思います。外国語習得における古典的なpattern practiceは無味乾燥というところに問題があるわけで、母国語の場合は「生きた」pattern practiceといえるでしょう。
>受動態は能動態の派生ではなく、意味も異なるということであれば、別個の構文であり、独自の用法があると理解してよろしいでしょうか?
−−その通りです。池上嘉彦氏などは「する」的−「なる」的という対立軸を中心にこの問題を解きほぐしています。
>「構文の意味」は生成文法だと語用論の問題として片づけられるのだと思いますが、構文の意味と単語の意味は連続していると考えるのでしょうか?とすると、ディスコースや文体の「意味」もその延長上にあると考えてよいのでしょうか?
−−確かに、連続していると考えます。日常会話を見ると分かりますが、完結した文は少なく、またテンやマルもないので、イントネーション上の単位は文法上の単位と厳密に対応しません。そうなると、ディスコース的な意味というものも「あるイディオム的なパタンに付随した文脈的意味」となります。私は構文スキーマにはどれもディスコース的機能があり、語や文レベルの機能とあわせ、全体として一つの知識構造をなしていると考えます。
>構文別と言い出すとまた多くのパターンが現れてしまって蓄積される知識が断片的になってしまうような気がします。やはり、それらの構文を結びつける何かはあるのでは?構文にもprototypicalという視点はあてはまるのかな、と思いました。
−−その通りですね。構文のネットワークも、言ってみれば家族的類似を持ったものといえるので(family of constructionsという言い方をします)、部分的な共通性に基づいた知識の継承関係によって断片化はしないものと考えます。
>旧来の文法観、つまり意味を担う最小単位(単語)がある規則によって整序されることで情意の意味が生じる、という考えは明らかに、分子(→原子→量子)の運動として全ての現象を説明しようとする近代科学のニュートン=ラプラス的パラダイムとパラレルであるように思います。やはり、現象や意味の連続性、非個体性を重視するというのが、近年の学問全体の傾向だといえるのでしょうか? 今、言語学全体におけるチョムスキーの地位というのはどのようなものなのですか。
−−一つ目の問いについて。やってる当人はそこまで考えていないでしょうが、時代の空気みたいなものはあるでしょう。特に物理学をメタ的なパラダイム視する傾向はあるし。認知的アプローチもゆくゆくはコネクショニズムや複雑系科学のようなアプローチとの接点を見いだす方向に行くと思います。二つ目の問いについて。笑ってごまかしたいのですが、まあ相変わらず主流である、という感じでしょう。前にも言いましたが、ウインドウズみたいなもので、「人が使っているから」従うというわけです(そう認める人がいないという点は言語理論とパソコンの違いですが)。教育制度的にも、概論でチョムスキーを仕込まれた学生が専門家になり、再生産するという形が長らく確立していますしね。特に日本では人のやらないことはやらない、という姿勢が強いということもある。その意味で、駒場はきわめて例外的な場所だと思います(<多少の自画自賛)。将来的には、言語学以外の人間科学の発展についていけるものだけが生き残ると思います。現時点ではチョムスキー理論も他のアプローチ(含む認知論)もこの点については楽観できません。
***中断節について
>中断節から出てくる意味は否定的なものが多いのではないかと思いました。言いにくいことを避けるという意味で。
−−なるほど。考えればいろいろ出てくることでしょう。
>中止め文の持つ+xはその省略された部分と同じではないのですか?コンテクストから明らかに理解されるorくみ取れる時に中断し簡略化するのではないでしょうか?
−−起源的にはそうだと思います。とはいえ、省略された語句がそのままリカバーできないこともわるわけで、その場合はコンテクストからの情報を「リカバー」することになります。しかしこれではリカバーしたとは言えず、結局コンテクストからどんな情報を選択するかは構文の与える指示によるものだと思います。私は2歳半の子供(人の家の)が「XXたのにー」と中止め文を連発するのを観察したことがありますが、これなどはリカバーすることが難しい、またはあまり意味のないケースと思います。例えば、食べ残したお菓子を親が食べてしまった時、「食べようと思ってたのにな」。この場合、省略された要素は「ママが食べちゃった」とかいうところでしょうが、これは事実の確認に過ぎないので新情報はない。重要なのはそれに続く、または含意される「だからボクは不満だ」という気持ちでしょうが、これは「〜のに」節に対しての「省略」とはいえないということです。さらに、この年代の子供は接続された複文を発することはなさそうだという観察があります。つまり、「Aなのに、B」という文は言わず、「Aなのにー」を先に習得するということ。だとすると、「のに」は接続詞としてでなく、文末の助詞的なものとして子供には習得されたのではないかと考えられます。とはいえ、この問題は微妙で、もっとしっかり考えねばならないと思います。ご指摘有り難うございました。
***その他
>授業の内容には直接は関係ないのですが、認知言語学は言語相対論と呼ばれるものに対してどの様な姿勢、アプローチをとるのでしょうか?
−−きわめて重要な問いですね。スケジュール的にはこの授業の最後に持ってくる可能性がありますが、どうなるやら。今の時点で言っておくと、まず、両者には密接な関係があります。「どうでもいい」と思っている人は認知言語学に関わっている人の中にはいません(「認知」というのは「思考」とかなり重なるわけですから)。次に言っておくべきは、言語相対論は色々なバージョンがあるということです。通俗的なバージョンは、言語が違えば思考様式が違う、もっといえば言語は思考を決定するというもので、これは魅力的ですが、立証が(ほとんど)不可能である等の難点があります。また、言語にせよ思考にせよ複雑なものなので、言語のどのような側面が思考のどのような側面を「規定」するのか、より明確にしなければなりません。言い換えれば、言語と思考が密接に結びついている(どちらが他方を規定するのか、という方向性の問題はひとまず経験的なものとしたうえで)、という立場を認め、そのうえで両者の結びつきの実態を現代的な角度の分析から明らかにしていこうとするのが認知的なアプローチだと思います。その意味で、「決定論」としての興味よりも「相互作用」へと興味が移ったと思います。
***言語習得について
>「UGの探求」というアプローチ以外で(認知的でなくとも)言語習得についての研究はあまりないのでしょうか。1950s以前の研究であれば異なる方法が使われたのではないでしょうか。
−−あります。このへんがややこしいところで、チョムスキー派の人たちは自分たちが「正統的」なアプローチだと考えるわけですが、心理学(概念発達なども含めて)でも当然研究は行われていて、むしろ問題なのはチョムスキー派でない言語学者と心理学者をつなぐような研究が少なかったことだと思います。こうしたギャップは徐々にうまりつつあると思います。
>生成文法的アプローチでは、言語習得はパラメータの設定の仕方を習得する、ということになるのでしょうか?
−−その通りです。もちろん語彙の習得もありますが、それは別の問題。
>生成文法的理論による言語習得では、「普遍性原理」をモデルにして母語以外の言語を習得する、ということになるのでしょうが、「構文本意文法観」によれば母語の構文ネットワークからのanalogyがある程度モデルになるのでは、という気がします。母語干渉も理解しやすい、ということになるのではないでしょうか。
−−なるほど、うまい考えだと思います。「関係節」一つとってみても、生成文法的な「パラメータの設定」という考えからは、名詞+(wh-)関係節が英語、関係節+名詞が日本語、という違いは説明されますが、これは外国語習得においては干渉がおきるほどではない。むしろ、日本語では典型的な関係節からはずれたものでも表現できてしまうので、ここからの干渉はでてきます。例えば「持ち家の買える会社に勤めたい」などは通常の英語では不可(*I wish to work for a company which I can buy a house)。これなどは、母語の構文ネットワークをまるごとあてはめてしまうことからくる問題でしょう。
>認知的アプローチからみた言語習得は生成文法と比べて納得できる部分が多いが、ではどのような形でネットワークがコードされ記憶されているのかという部分に疑問・興味がある。
−−うーむ。テクニカルなことはちょっと...専門的研究はあるし、ちゃんとしたモデル化はされているらしい、ということだけお答えします。ただし、ここでいうネットワークとは高次の知識表現としての、ということで神経回路にダイレクトにコード化されているとはまだいえないと思います。
>文法と単語の習得を同一レベルで扱うということは、習得の順序とは関係なく、ある出来事を捉えてただ(構文として)憶えるということですか?
>今日のテーマは非常に興味深かったのでもう少しお話を伺いたいのですが...
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−−そう考えます。ただし、カテゴリー化の時にも言ったとおり、構文ネットワークも上下の階層をもっており、初期に習得されるのはその中でも基本的な構文スキーマなので、こうした観点からこれまでの研究で言われてきた事実も捉えられると考えます。
>心理学の授業では単語の習得と文法の習得には差がある(臨界期など)と聴いた覚えがあります。2つの習得は同一レベルで捉えるのでしょうか。
−−一つの答えは「文法」の定義にかかわると思います。母国語の基本的な構造の習得に臨界期があるのは確かだと言われます。逆に、多様な構文の理解までふくめれば、単語と文法の習得にそれほど差はないともいえます。なお、重要な点として、基本的な構造の習得の臨界期は固有の言語的知識(=自律的モジュール)を反映するのか、一般的な発達段階の制約なのか、という問いがあります。印象としては後者の方がもっともらしく思えますが、よくわかりません。
>幼児は自分の母などまわりにいる人たちの言葉をまねして繰り返して使うようになると思いますが、すべての構文や言葉をまわりの人々が使っているとは考えられないので、そのように考えるとき「普遍的文法」は納得いくものであるように思えてなりません。
−−これは大変興味深い問題を含んでいます。インプットにない文も発することができる(少なくとも理解することができる)、というのはUG的観点からはきわめて重要です。これに対する考えは、第一に、本当にそうかと問うこと。ただしこれは水掛け論になるかもしれない。あるデータについて、という限定つきならいえるでしょうが。第二に、子供が自発的に文法を開発する能力を認めた上で、それが生成文法の定義におけるUGとは別物であることを示すこと。これは有力な考え方だと思います。つまり、先天的かつ言語固有的知識を仮定しなくても、教わらない文(構文)を発案することができる、とする立場です。これについては知識の自己組織化という観点から研究が進んでおり、私もよくわかってはいないのですが進展に注目しているところです。
***構文的意味について
>構成素原理について(部分の集合が全体ではない、全体には全体の姿がある)ということは構文をゲシュタルト(でしたっけ?)的に考えるというふうにとらえてよいのでしょうか?
−−はい、その通りです。ちなみに、正確には「構成性の原理」。
>A(1)+B(2)の意味が1+2+3になるときのBには、構文からの意味だけではなく文脈共有方法他、多くのことが関わり、さらにそのすべてを加えても一つに決まらずあいまい性を残すように思います。
−−これは意味の(解釈の)慣習化という見方が可能です。歴史的には文脈を参照しつつ行われた解釈が主であったものが、文脈的意味が言語形式に固定していくというのはよくあります。慣習化が進むとイディオムとしかいえなくなるわけです。
>中止め文についての例で、「〜し」はopenな接続ですが、理由以外に意味はあるのでしょうか?普段、日常会話の中で中止め文はよく使われますが、今日の授業のように詳しく分析したことがないので、授業をきいて中止め文はその文にバラエティーを与えていると感じました。中止め文を使うことによってより感情表現が豊かになっているように思います。
−−「〜し」の用法については、「試験も終わったしレポートも出した」のように「並列」という意味もよく見られます。
>「節−のに」に続くはずの節は、だいたい相手の非を表す節だと思います。それを省略するのは、あえて表現して相手と争いを起こしたくないという、日本人らしさの表れなのでしょうか。
−−広い観点からはそうでしょうね。一般的には省略の多さという特徴と結びつくでしょう。もちろん、省略的な表現を好む言語・文化は日本語以外にもあるので、広範な比較研究は重要です。
>「〜のに」「〜だし」を構文として頻繁に用いるのは授業中の例の子供に限らず私たちにも当てはまることですよね。「ってゆうか何もすることないしぃ」のように、いわゆるコギャルの子が特に多く使っているように思います。私自身も例外ではありません。はっきり明確に主張できなくて暗示を控えめに押し出すような話し方は、「〜みたいな」「〜ってカンジ」に通じるような自信の弱さを示すものでしょう。中止め文を私たち現代っ子が使いたがるのがわかる気がしました。
−−そうですね。「日本の若者はアメリカ化して本音で率直にものを言うようになっている」などというのがいかに誤った評価かわかります。
>言語が構文ネットワークなら、言語を用いるのは人間の脳に規則がないかあるかという問題ではないのですね。なら、他の動物が言語を用いないというのは本当に正しいのですか。音声以外の手段で言語を持っているのではないのですか。
−−論点その1。「人間の脳に規則がない」かどうかはよくわかりません。推論、計画、予測、といった活動はするわけで、「こういう時はこうだ」という知識はあるはずです。それを規則と呼ぶのはさほど問題はないでしょう。ただ、記号の操作であるような文の書きかえ規則の存在はたしかに怪しい。言語活動を意図的な行動と考えれば、命令を発するのに主語のそなわった文をまず考えて、youを消去する、というような規則ははたらいてはいないでしょう。論点その2。他の動物については、結局言語の定義に関わるので、何とも言えません。哺乳類でも脳の発達したものは単純な記憶・学習だけでなく推論や予測もします。猿の類は音声コミュニケーションを行うことも知られています。それでも、人間との決定的な溝はあるらしく、目の前にないもの、仮説的なものについて語る能力は欠けているというのがよく聞く話です。これをネットーワーク的モデルとどう結びつけるかは何とも言えませんが、結果的にはネットワークのサイズ(記憶による制約)やバラエティー(認知能力による制約)、またアクセススピード(脳の構造による制約?)の差からくるのではないかと思います。
***その他
>言語のことをよくよく考えたことなんて今までなくて、最初の頃はつらかったのですが、やっとわかってきて授業もおもしろくなってきました。
−−それは有り難いことです。
>日本語ではwh-節は動かない、ということについて。私は「何をあなたは今日食べる?」という文にそんなに違和感はありません。その辺はある程度動かせると思います(傾向として正しさの差はあるような気もしますが)。
−−いやいや、これは説明不足で、「動かない」ではなく、「動かす義務がない」です。英語では文頭に置かないとダメです。もっとも中国語などは語順の固定度が高いので、「動かすとダメ」というケースがずっと多い。
>「人間関係のメタファー」が(液体)として捉えられているか、少し考えてみましたが、あまりいい例は思いつきませんでした。つき合いが「深い/浅い」というのは少し関係するような気がします。「関係がこじれる」の「こじれる」は他にどいういう場合に使うのか(でも液体ではないですね)とか「社会のはみ出しもの」のような「はみ出す」はどうだろう...とか考えました。
−−なるほど。まともな研究をしようと思ったらちゃんとデータを見ないといけませんね。
>他の授業で手話も自然言語であることを学びました。手話の文法構造についての研究はどのくらいまでなされているのでしょうか。
−−「自然言語」というからには「英語」、「日本語」と同じようにいくつもの言語があるわけで(日本においてすら幾つもあるそうです)、ASL(American Sign Language)のように母語話者もたくさんいてよく研究された言語もあれば、そうでないものもある、ということです。アメリカ国内の学会などでは、ASLについての研究発表の方が例えばロシア語についてよりも多い、ということもあるのではと思います。
>自然言語、いわゆる会話する上で用いる言語[について]。人工言語、プログラミング言語とか日常で会話機能を果たさない言語、と定義した場合、認知言語学は自然言語に、生成文法は人工言語に適していると思います(人工言語については生成文法理論を適用した結果できた言語かもしれませんが)。やはりイディオム的な、というより音韻的なヤコブソンの6機能図式のcode以外の残りの5つに即した5機能が会話には存在するでしょうから。
−−そういう考え方はしたことがなかったですが、そうかもしれません。なお、「ヤコブソンの6機能図式」は別に「音韻的」なものではなく、言語の機能一般を話題にしたものなので、注意して下さい。たしかに、生成文法的な考えでは、対人的機能などはいったん文を生成した上で、事後的に解釈を与えるというモデル化をします。さまざまな機能を扱わないわけではないがメインには置かない、というところに多くの人が不審をいだいてきたわけです。
>「ウキー」ってことばかも。いますごく悩んでいます。どーでもいいことかもしれませんが。
−−それって、猿のですか、それともヒトが擬態的にいうやつですか?後者だったらそれなりに慣習化した、ただし辞書にのるほどではない「ことば」といえるかも。「ウミー」とか「オキー」とかは何のことかわかりませんしね。
>「文法」という概念がでてきたのはそもそもいつ頃ですか?たとえば、古代ギリシャ人は自分たちの言葉を他民族のものと比較して、「文法」というものの存在について何か考えたりはしていますか?あるいは日本人はいつ頃から自国の言語の「方則性」意識しはじめたのでしょうか?
−−話し始めるときりがないんですが、ヨーロッパの伝統では古代ギリシャです。ギリシャ人が抽象思考を好んだという説はさておき、一つのきっかけは古典の訓読(プラトンの時代ではホメロスは既に難解な古典だった)、もう一つは議会制にともなうよりよい言語表現への関心(政治家は詩人や哲学者でもあった)です。文法上の基本概念の多くはこの時代に作られました。ヨーロッパ以外では、ギリシャよりも古く、サンスクリット研究がインドで行われていました。きわめて水準の高いものだっだと言われています。これもきっかけは聖典(リグ・ヴェーダ)の読解。他民族との比較研究となると、たぶん時代はずっと下るでしょう。中世になるとヨーロッパとイスラム圏の接触があったので、それなりに研究はあったと想像されます。日本の文法研究は実はよく知らないのですが、江戸期の国学はつとに知られるところです。それ以前だと仏典や漢籍の研究、また和歌の技法などとの関連で日本語の文法面への関心があったのでしょうが、詳細は知りません。この辺のあらすじは「国語学史云々」という題のついた本に書かれているので、適当に参照して下さい。国語学をやっている人の間では、学説史に対する関心は欧米流の言語学をやっている人よりもずっと強いという印象を受けます。
***言語と文化・思考について
言語/文化は強く結びつくという説についてですが、最近mentaleseという共通の思考様式について聞いた気がするので、考え方はいろいろあるなと思いました。(どちらも割に説得力があるように思えたので。)
−−私も、日本的というか、文化相対性を信じつつ、普遍的なものもありそうだというどっちつかずの立場なのですが、「思考」とよばれるものの階層またはレベルを分けることは必要だと思います。さらに、mentaleseが数学的体系のようなものであるにしても、その適用方法は複数あるはずで(方程式の解法が複数あるように)、そこには文化的な違い以前に個人差もかなり出てくるのではと想像します。
言語と文化(思考)については、今興味のあるテーマなので、その話が聞けて良かったです。言語が異なれば確かに文化も異なることは何となく理解したのですが、個人的な意見としては、思考そのものの本質を考える際には、たとえ使う道具としての言語が違っても脳の中心部分ではなんらかの共通の記号のようなものを使って思考しているように思えてなりません。
−−そうですね。小理屈になりますが、普遍的であるミクロな化学的プロセスはそれ自体「思考」とは言えないわけで、要は上の点と同じく、レベル分けを経験的に妥当な形で進めることだと思います。
事象構造の組み立て方が言語によってどれくらい異なるのか、とても興味があります。もっとこのような研究が増えるといいと思います。
−−私もそう思います。
Perspectiveという概念の中には、時間的な問題やmodality以外にtransitivityも入っているのでしょうか?たとえば、新情報を導入する時に、主人公の目から見るか(I found ...)日本語のように「がいる/ある」というようなものです。
−−はい、入ってきます。
確か単語レベルの失語症と文レベルの失語症があった気がしますが、そうすると、単語と文法が脳の異なる部位で扱われていることになり、単語と文法の知識は分けられないことになりませんか?でも、すると、文法化が生じると、同じ語が脳の別の部位で処理されるようになることがあるということにになり...興味深いところです。
−−難しい問題です。この方面の研究は通じていないのではっきりしたことは言えません。クラスで示した立場は単語と文とが明確に分離できるものではないということ、(ある面につては)両者を共通な方法で分析することができる、というものでした。「主語+述語」のような文法規則(または「構文」)がモノの名前を表わす単語と同じステータスである、という主張はしていないつもりです。ひょっとしたら言ったかもしれませんが、だとしたら不正確でした。脳の機能の局所性についても、実は分かっていないことも多く、明確な線引きというよりは、連続体的なものではないかと思います。それにしても、文法化についての問題的は面白いと思います。例えば英語でgoやhaveという動詞を使えない患者が、be going toやhave toを使えるか、というのは調べてみたい。もちろん、言語変化自体は世代にまたがるのが普通なので、同一人物の脳内でシフトがおきるというわけではないと思いますが(でも、そうだとしたら更に面白い)。
***言語変化・文法化について
言語変化のうち消失したものは文の中で重要度の低いものとみなしてよいのでしょうか?性のカテゴリーは英語は消失しましたが、フランス語、ドイツ語では残っています。この差は何にあるのでしょうか?
−−一見すると「イエス」と思われます。もっとも、古今東西で消失したカテゴリーの総目録を作った学者はいないのですが。あるカテゴリーが(特に形態論的な)消えるのは、語尾などが音声的に「磨耗」して結果として区分が明示されなくなる、ということが多い。その結果、消えたままになる場合と、他の面で機能の肩代わりをする場合があります。英語の性などは前者、時制や法などは後者(動詞の屈折でなくhaveや助動詞との組み合わせで表現する)と思われます。日本語の敬語も、音声的な磨耗で消えるのではないにせよ、新しい形式が時代と共に生じるケースです。直感的には、性よりも時制の方が重要そうなので、仮説としては成り立ちそうです。英語と独仏語との違いがどこにあったのかは、一概にはいえないと思いますが、偶然プラス冠詞の単純化ではないかと思います。わざわざ「偶然」というのは、英語が全くなくなったのに対し、フランス語が格変化をなくしつつも今なおふみとどまっていることの理由がよく分からないからです。これに対し、バントゥー語族(含スワヒリ語)の「性」(正確には名詞のクラス、どの言語にも10+個ある)は動詞の活用と直結して主語や目的語などを表示するので、重要度ははるかに高いといえるでしょう。
昔の言語を研究する時、その変遷を単にたどるのではなく、その時々の特徴を見ていくやい方もあるのでは、という先生のご意見は「通時的にではなく、共時的に見るのはどうか?」と僕には思えて興味深かったです。
−−そうですね。新しいアプローチというわけではないのですが、必要な見方だと思います。
文法化のような言語変化の場合、国語学で詳しく調べられているのでしょうが、国語学での研究との差異はどこにあるのでしょうか?
−−うーむ。実はよくわかりません。拾い読みはしてるんですけど。国語学だと個別的な研究が多いので、一般化する方向に向かわない、という違いでしょうか。逆に、欧米流の研究だと異なる言語を比較して一般的なパタンを抽出する傾向が強い。その分、細部の違いや例外を単純化してしまうので、個別言語の専門家から見ると「粗い」ということになります(私のやっていることも含めて)。これは実は日本語だけでなく、他の伝統ある言語研究でもいえることです。わずかづつでも、視野を広げながら進めていくのが現実的と思います。
文法化ってメタファーに似ていません?あるスキーマを別のスキーマに飛ばすってところがなんかすごくメタファーを連想してしまうんですけど。それと、言語習得について学びたいので何かためになる資料などあったら教えて下さい。
−−実はその通りです。より正確には、抽象度の高い(つまり文法カテゴリーとなりうるような)メタファー的な拡張が文法化の仕組みとしてあるわけです。もちろん、それ以外の要因もあるわけですが。文法化を支える柱の一つがメタファーであることは確かです。
Sentenceの最後にくるpartに対人的な負荷がかかるとは...どういうことかより詳しく知りたいです。
−−Good pointです。「対人的な」というのは、事実を伝えるだけでなく、相手に働きかける、あるいは自分の態度・感情を表すということです。「負荷」というのは、そうした言葉のはたらきが文末にとくにかかりやすい、ということです。言い換えれば、そうしたはたらきが重くなって文法化(と言い切れなければ機能のシフト)が起きるのは文末がよくありそうだ、という仮説です。
他の言語はわかりませんが、日本語についてのpartの部分の負荷、すごくおもしろいと思いました。日本人の文末をにごすという性格がまるで言語にまで表れているような気がしました。対人的な働きかけも、授業で取り上げた「わけ」にしても、たとえば、「○○へ行って来たわけ」というのが、前述の部分を指す(その理由を述べる)だけじゃなくて、その先を暗示させる感じがあります。うまく使うのが難しい言語なんだろうなぁと思いました。(心使いのできる人じゃないといけないかもしれないし)
−−なるほど。構造的に日本語と似ている言語(SOVで、Vの周りに助詞や助動詞類が付随する)は韓国語、トルコ語、タミル語など多いので、それらでどこまで似た現象が起きているか分析すると「日本語らしさ」が出てくるかもしれません。
文字言語と接続詞の発展の関係という話が興味深かったです。実際、電話で話すときに比べると、手紙やメールで伝える場合の方が接続関係をよく考えて接続詞を置かなくてはならない、と感じることがよくあります。
−−これもなるほど。もちろん文字にならない言語でも、様式化された(叙事詩のような)場合には聞き手の関心を引き寄せたり、エピソードを切り替えたりするために接続詞的なものはあるんでしょうけど。想像力をかき立てられますね。
語彙化について、「ぶ」「ど」などの接頭辞が定着した場合、語彙化されたと言えますか?例:「ぶっ飛ばす」「ど真ん中」
−−生産性が弱いという点で、語彙化ですね。もっとも、他に結びつく単語が皆無と言うわけではないですが。「ぶっちぎる」とかは?「ど」については冗談で(つまり辞書に載らないようなズレた言い方で)生産的に使われたりもすると思います。「どアホ」はOK、「どバカ」、「どマヌケ」とか、子供なら言いそうです。その意味で、「ぶっ飛ばす」の方が「ど真ん中」よりも語彙化の度合いは高い。ちなみに「素」という語は生産性が低いのですが、「素バカ」という言い方を私は学生時代に仲間内で使っていました。
日本語の(動詞連用形)+(動詞)の例がありましたが、たとえば、「駆けのぼる」「のぼり詰める」は言えても「駆けのぼり詰める」とは言えないというような適応の組み合わせ(ステップ数)の制限がかかっているように思いますが、これはどう考えるべきですか?
−−たしかに制約はあります。「数」だけでなく、意味的な(自他の区分とか、能動性があるかとか)制約も研究されています。複合述語は研究の盛んな分野で、興味ある人は日本での第一人者である影山太郎氏のものをおすすめします(『文法と語形成』、『動詞意味論』など)。
ヒトの認知の仕方が言語的側面から見れて勉強になりました。しかし、言語学における細かい話が私には頭の中であまり整理できません。特に文法のところです。語彙->文法にシフトする話の例で、「まいらす」->「ます」になるというのがありましたが、「まいらす」がなぜただの語彙で「ます」が文法であるのかがよくわかりません。「まいらす」も動詞なら何らかの規則を受けているので文法なのではないのでしょうか?
−−なるほど。たしかに言語学的な概念の解説が不足だったかもしれません。質問の件については、制約は確かに動詞の段階でもありますが、2つの用法の違いは、1)自立性(「まいらす」は語彙的動詞は自立語、「ます」は付属語)、2)意味の抽象性(=スキーマ性)、「まいらす」は物理的動作、「ます」は対人関係、3)分布と義務性、「まいらす」は分の中核を成す動詞なので必要があるときだけ、つまりそうした内容を表現するときだけ使うが、「ます」はどんな内容についても、ある態度をとる限り使い続ける、4)いいかえれば、言語内の他のどんな要素と対立するかという問題で、「まいらす」は一群の動詞と体系をなす、つまり基本的に開いたクラス(1000から10000のケタで原理的には無限)ですが、「ます」は文につく助動詞と体系をなす、つまり閉じたクラス(多くても100のケタで有限)です。コンピュータもどきの言い方をすれば、「ます」は文法そのものつまりオペレータであり、「まいらす」は(抽象的な概念枠を構成する)文法が操作の対象とする実質的な概念としてのオペランドである、というところでしょうか。
***感想・他
最近メタファーの研究が流行っているとある先生にうかがったのですが、具体的にどんなことが行われているのでしょうか(授業でお聞きしたこと以外に)?
−−クラスで1、2度言いましたが、いろいろあります。授業以外というと、知ってることは話してしまったので(笑)、ちょっと出てきません。学術誌としてはMetaphor and Symbolic Activityというのがあります。毎号いくつものケーススタディーが載ります。駒場でも注文したので、今年中には入るでしょう。
一学期ありがとうございました。もやもやとしていた事がすっきりしてきたところが多くあり、嬉しく、感謝します。
授業を受けるかたわらウンゲラー、シュミットの教科書を併読することで非常に理解が補強されました。
−−こちらこそ、毎回の質問等、得るところの多い授業でした。たしかに、他のテキストと併読すると理解は深まったことでしょう。よい勉強方法だと思います。
来学期にでも文法に関する授業を半期でもやってもらえるとありがたいです。
−−ええっと、まあ、自分で決められることではないので...昔なら、有志で自主セミナーでもやったんでしょうが。ですが、たしか次年度('99年度)は後期に教養学科(3・4年向け)で語学科目の英語をもつはずなので、通常の講読でなく英語の文法について書かれた本を取り上げるということもありうる。駒場はそのテの科目が教職にカウントされるはずだし、そうですね、いい考えかもしれない。
### というわけで、またお目にかかりましょう。まあ、私は眼鏡をかけている時もあまり見えない上に、人の顔をすぐ忘れるので(^^;)、ボーっとしていても声をかけて下さい。 ###
Last modified: Feb. 3, 1999